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12月30日 「不思議な偶然」

私の父は大正15年生まれ、第2次世界大戦の時、東京に住んでいました。
終戦間近の東京は米軍が投下した焼夷弾のため町中に突風が吹き荒れていたそうです。
ある日、父は東京の街を歩いていました。疲れたので腰を下ろして休憩をしていたのですが、どうも居心地が悪くすぐにその場所を離れたそうです。するとその直後、さっきまで父が座っていた場所を突風で飛ばされてきた大きな材木が直撃しました。危うく死ぬところだったと父は言っていました。もしその時父が死んでいたら、私は今この世に存在していません。こんな話は単なる偶然と言われるかもしれません。でも私は後に生まれてくる私を生かすために、この時神様が父に働いて危険を知らせたのだと思います。また神様は私を生かすだけでなく、私に神様の存在とイエス様の救いを知らせ、私が信じるように導いてくださったと信じています。神様は私の人生のすべてをご存知の方だからです。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに 詩篇139編16節

 

12月16日 「イエス・キリストの十字架によって与えられたもの」 ローマ3:9〜31

聖書は真の神様のまえに、すべての人が罪の下にいるという認識をする必要があるといっています。これが人間が一番最初に認識すべきことです。また、この罪によって私たちは地上での歩みのあと、裁きのときに永遠の地獄にいく存在です。 しかし、イエスキリストを自身の救い主と信じるときには、「義とみとらめられる」のです。この「義と認められる」ということばは本来法律用語であり、容疑者(形が確定していない人)が無罪としてあつかわれるときに使われることばです。私たちは神様の前に、容疑者ではなく、罪のために被告(刑が確定したもの)であり、本来裁かれて当然の者なのです。しかし、イエス・キリストの十字架と復活信じるとき、その罪の裁きをゆるされるのです。つまり、地獄という刑が確定している被告であるのに、 イエス様の十字架によって無罪宣告を受けることができるのです。これが、イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたものなのです。

 

12月9日 「弱さの中に働く力」

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さの
うちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私を
おおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」コリントU 12:9

私たちの弱さの中に神様の力働かれる。その秘訣は

1.自分の弱さを認める   
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。マタイ5:3
2.弱さを受け入れる  
弱さは私たちを謙遜にさせ、心が神様に向くようになる。
3. 弱さを分かち合う  
自己防衛をやめ、仮面を脱ぎ捨て、自分の葛藤を人に分かち合うようにすることで、神様は恵みを与えてくださる。神様は私たちの弱さを通してご自分の力を現そうとしておられる。

「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
コリント1:27

12月2日「復活の信仰2」 ヨハネの福音書20章19〜31節

キリスト信仰が真理であるという根拠、それは「イエス・キリストの復活」です。

もしキリストの復活がなかったら、クリスチャンが信じているものは、世にある宗教と
何ら変わりないものになってしまいます。 人間は神様のひとり子であるイエス様を信じるどころか、罪のない方を死刑にして殺してしまいました。これは人間の最大の過ちです。その結果、人間は神様から見放され、滅ぼされてもしかたありません。人間にはただ滅びと絶望しかありません。でも、それはイエス様の復活という事実がなかった場合です。 今までイエス様の復活を否定できた人は誰一人いません。歴史的事実だからです。イエス様の復活を信じるということは、イエス様が神様のひとり子であることを信じるということです。そしてイエス様の十字架を自分の救いとして受け取るということです。クリスチャンの方々は、このイエス様の十字架と復活を信じることができたことを感謝してください。

 

 


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11月25日「底なし沼からの脱出」 ローマ人への手紙1章

神の目に見えない本姓、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。  

ローマ人の手紙には、神様がおられること、神様が私たちのことをどのように思っておられるのかが記されています。人はどのようにすれば救われるのでしょうか。
 二つの大前提があります。ひとつは人間は底なし沼にいるということです。もうひとつはイエスキリストが救い主であるということです。底なし沼ではもがけばもがくほど沈んでゆきます。そこではあらゆる人間的な努力は役に立ちません。イエスキリストは、底なし沼でもがき続ける私たちを救うために、手を差し伸べておられます。私たちが救われるためには、イエス様の救いを信じ受け入れるだけでよいのです。あなたもイエス様の救いを信じ、底なし沼から脱出してくださいますように・・・。

 

11月18日「イメージ」ローマ 8章18〜25節

 昨今、テレビやインターネットの普及により映像から情報を得ることが便利になりました。しかしそれに伴い、本を読む文化が衰退してるそうです。あるエッセイでは、本を読まないと物事をイメージする力が乏しくなっていき、将来に対する不安や将来に備えて自分のすべきことが明確に考えられなくなる、と警告しています。 私たちは神様からの手紙として聖書を読みますが、それはただ読むのではなく、その文章から神様の愛の素晴らしさをシッカリとイメージして神様にあって如何に生きるべきか、神様に如何ほど愛されているのか、を確信して歩むことをお勧めいたします。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。ヨハネ20:29

 

11月11日「イエス様のゆるしの祈り」 ルカ23:32-34

『父よ。彼らをお許し下さい。彼らは、何をしているか自分でわからないのです。』

a.旧約聖書との関係は?敵に対する復讐を求める祈り(詩篇137:7-9)→神の義を求める祈り/神の義が地上になるように★イエス様の祈りとの違い:「彼らを罰してください」 とは祈らなかった。★イザヤ53:12の成就:そむいた人たちのためにとりなしをする。

b.この祈りはだれのためか?★ イスカリオテ・ユダのため【貪欲】銀貨30枚(奴隷売買の値段)でイエス様を売った★祭司長/パリサイ人 のため【妬み】相手が全うな場合は更にねたみは強くなる★ポンテオ・ピラト 【保身】無罪を知るが恐れからローマへの告げ口を恐れた★兵士たちのため【無知】上官の命令を実行しているだけ  ★群衆のため【無知】政治的メシや像を願っていた
『何をしているのか自分でわからないのです。』Iコリ2:8/Iテモ1:13 ★現代の私たちのため【上記の何れか又は全ての素質を持っている】 

c.この祈りは聞かれたのか?
祈りは聞かれた→仲介者としてのイエス様
★自らが死ぬことによって聞かれた。和解させる力をもっていた。★全員がゆるされたわけではない。信仰の応答が必要である。

 

11月4日「復活の信仰」ヨハネの福音書20章19〜31節

イエス・キリストが十字架につけられて殺されたこと、そしてよみがえられたことは歴史上の事実です。いまだかつてイエス様がよみがえったことを、完全に否定できた学者は一人もいません。ですから問題は「イエス様のよみがえりなんて信じられない。」と主張する人間の心にあります。 イエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」と言われました。これは「目には見えなくても、確かなものを信じることができることは幸いです。」という意味です。神様の存在、人間の罪、天国と地獄の存在、イエス様が神のひとり子であること、そしてイエス様のよみがえり、これらは目には見えません。けれども、人生そして永遠を左右する重要なことであり、信じなければならないことです。私たちクリスチャンは、弟子たちのように直接イエス様を見てはいませんが、イエス様を信じることができました。ある意味で弟子たち以上に幸いな者なのです。

 

 


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10月28日「罪の主人からの解放」 ローマ人への手紙6章

5:もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
7:死んでしまった者は、罪から解放されているのです。5節は、事実、私たちはキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのですから、必ずキリストの復活とも同じようになるのです。の方が正しい翻訳になります。
6.7節には、罪という言葉が出てきますが、この罪は罪の主人という意味です。罪の主人から解放されている私たちは、神様から裁かれることはなく、神様の栄光を表すために生きる者とされているのです。

 

10月21日「福音の力」 2ペテロ1:1〜11 

私たちクリスチャンは真の神様が人のかたちをして、地上にこられ、私たちの罪の罰を身代わりに受けるために十字架にかかられたこと、また、それが事実であることを示すために三日目の朝に復活されたことを信じています。十字架にかかられた方こそがイエス・キリストです。そして、イエス様が神であることを信じてこの地上を歩むとき、私たちは聖書のみことばの力を認識し、そこから本当の希望を理解します。また、救いはなにか努力をしなければならないといった行いではなく、ただ神様から与えられる一方的な恵みによってなのです。しかし、ときにクリスチャンであっても、日々の生活において、自身が汚れていて、世の中を第一と思うかもしれません。しかし、聖書には神様がの選びによって救われるということが記されています。さらに救いは、今だけでなく過去、未来のすべての罪が赦されたということ、同時に心も神様の性質をもつものとなったことを神様は聖書を通して、宣言しています。これが福音の力なのです。私たちはこのことを覚えて歩めばよいのです。

 

10月14日「言葉の力」詩篇1:1〜3

幸いなことよ。 悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
言葉には私たちの人生に大きな影響を及ぼす力がある。言葉は創造し、破壊をもたらし、また、私たちに祝福をもたらす。人の思いや言葉がやがて行動に結びつき、行動のれんそが習慣となり、習慣は人格を形成する。人格は人生を左右する。神様は聖書を通じて私たちにたくさんの祝福を与えようとしておられる。

 

10月7日「イエスに従う信仰」 マタイの福音書8章18〜22節 

私たちクリスチャンは天国へ行くまでに、この地上をキリスト信者として歩まなければなりません。私たちは神様に従って歩むために生かされているのです。けれども、私たちは自分の力で「従おう」と努力するのではありません。まずイエス様を見るべきです。なぜならイエス様こそ、最も神様に従われた方だからです。
イエス様は神様のひとり子でした。その方がこの世に来てくださり、十字架にかかって人間の罪を背負い、人間の身代わりに神様の刑罰を受けてくださいました。これこそ、神様が人間を救うためにとられた唯一の方法でした。その神様にイエス様は従われて、命を捨てられたのです。イエス様が死に至るまで神様に従われたからこそ、私たちクリスチャンは救われ、永遠のいのちにあずかることができたのです。そのイエス様の行動や言葉を心に留めて歩んでいくならば、私たちは神様に従った歩みになっていくのです。

 

 

 


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9月30日「へりくだり」

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は収税人だった。 パリサイ人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この収税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、収税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」     ルカによる福音書 18章 9節〜14節

 

9月16日「意味」

船の窓の形、鉛筆、マンホールの蓋、カップヌードルの容器など、私たちの身の回りの物には様々なデザインが施されており、その一つ一つに意味があります。また、そのデザイナーが優れているほど、より美しく、より機能的な物が生まれます。
聖書は私たちに『創造主の存在は被造物を見ればわかる』と教えてくれます。確かに私たちは自然界や動物、人間のメカニズムが非常に機能的で美しいのを見て感動します。この御言葉を通して、更に神様の御業を覚えて、感謝をもって歩むことをお勧めします。

 

9月9日「枠組み」

私たちは、ある枠の中で ものごとを見ています。見る枠組みを変えると、 同じ行為でも逆の意味さえ持ってしまいます。私たちがものを見ている時には、 必ずある枠組みからものを見ている ということを知っていなくてはいけません。 by 佐藤 雅彦
たとえば進化論という「枠組み」の中で、人間の存在・価値・未来を考えていくと行き着く先は破滅です。本当に人間は進化したのでしょうか?聖書では創造主が人間を創造したと書いています。その方が限りなく真実に近いと、多くの証拠でもって知ることができます。その証拠は聖書という「枠組み」の中で見ると明らかです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20

 

9月2日「求める信仰」 マタイの福音書15章21〜28節

イエス様に願い求めたカナン人の女性は、はじめイエス様から無視されました。しかも犬扱いをされたのです。それでも彼女は、イエス様に求め続けたのです。なぜイエス様はすぐ、彼女の願いに答えられなかったのか、真意は分かりません。ただ、それがイエス様のみこころであったこと、またそのことによって神様のご栄光が表されたことが分かります。最終的にイエス様は彼女の願いにこたえられました。 私たちクリスチャンも、この女性のように神様に求める者になることを、神様は求めていらっしゃいます。そして求め続けた者に必ずおこたえになるのです。私たちは、神様が何を考えておられるのか分からないことがあります。ですからこの人生において、時にはただ苦しい、つらい、悲しいことがあるかもしれません。しかしそれらは、神様から見ると、あるいは信仰の目を持って見ると、決してムダなことはない、すばらしいことであると、私たちクリスチャンは信じることができるのです。

 

 


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8月26日「神は地を何もない上に掛けられる」  ヨブ記26:7

この聖書箇所の「地」は「球体」を意味しています。ある古代文明では地は平面だと考えられていた。しかし、すでに3000年前に書かれた聖書のヨブ記にはすでに地球が球体であることが書かれていました。秩序・配慮がどのようにして存在するようになったのか?人間はどこから来て、どこに行く存在か?聖書に答えが書かれています。被造物を見ると私たちが信頼している聖書にもっと確信がもてる。人間の価値観は何を基準にするか?
一般的な考え…目に見えている物が全て
聖書の考え…目に見えていない所に真実がある
真実に目を向けましょう。

 

8月19日「失格者にならないために」 Tコリント9:26〜27

どんな競技でも、目的地(ゴール)がわからずに走るのは大変疲れます。コリント人への手紙の著者であるパウロは決勝点、つまり自分の人生がどこに向かっているかを知っていました。パウロは自身が天国にいくことを確信していたのです。私たちクリスチャンも聖書からどこにいくか、つまり天にいくことがわかっています。まずは、このことを聖書のみことばをもっておぼえましょう。また、この箇所は未来の特権、神の子という権利や救いについて言っているのではありません。クリスチャンの永遠の特権ではなく、現在の責任について教えています。「神の子たるもの=クリスチャン=イエスキリストを救い主と信じた者」ではなく、「神のしもべ=クリスチャンでかつ、神様に従う(はたらく)者」になることをすすめています。
では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。みことばには「からだをたたいて従わせる」とあまります。これは、私たちが神様によって生かされたものであること、福音に信頼することを意味しています。クリスチャンの土台はイエスキリストの十字架と復活であり、信頼することによって私たちはクリスチャンとして成長するのです。今一度、イエス様の十字架と復活をおぼえてください。

 

8月12日「新しく造られた者」 Uコリント5:16,17

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
私たちはイエス・キリストを信じた時から神の子とされ、新しく造りかえられた者である。
その新しい創造とは@新しい視点A新しい性質B新しい考え(思い)を持つものとされたことである。
造られたものは造り主の素晴らしさ・栄光を表すことができる。私たちは罪の性質のある肉体を持っているが、心や思いを神様に向けるなら、神様の栄光を現わす器として成長することができる。
「人が主に向くなら、そのおおいは取りのぞかれるのです。」Uコリント3:16 
「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」Uペテロ1:4〜7

 

8月5日「単純な信仰」マルコの福音書5章25〜34節

長血をわずらっていた女性は「着物にでもさわれば、病気をなおしてもらえる。」と考えて、イエス様の着物にさわりました。そして病気がいやされました。さわればなおるというのは、とても単純な信仰です。そして彼女は多くの群衆の中の小さな一人でした。しかしイエス様は、小さい存在である彼女の単純な信仰に、きちんと答えてくださったのです。別の所でイエス様は「からし種一粒ほどの信仰でよい。」と言っておられます。信仰というのは、単純かつ小さいものでよいのです。しかし小さくても、イエス様が自分の罪のために死んでくださったというキリスト信仰を、私たちは持つことができたのです。そして罪の赦しと永遠のいのちを得ることができました。これは神様からの大きな恵みです。すばらしいことです。まず私たちは、イエス様を信じる信仰が与えられたことを覚えて、神様に感謝すべきです。

 

 

 


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7月29日「神を愛する者のために」 Tコリント2:9

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。
 私たちは生きて行く上で、この世の常識や自分の経験を頼りに様々なことを判断しますが、常識や経験による判断がすべて正しいとは限りません。
 また、私たちの目に見えているものは限定的で、間違って見えている場合(目の錯覚)もあります。神様が私たちのために用意してくださった救いの御業は、一見非常識で人には理解し難いことかもしれません。でも安心してください。
 人には理解できなくても、神様の救いの御業は絶対であり、完璧なのです。


7月22日「聖書は真実の書物」  コリントT10:32

聖書は、一つの宗教団体の書物ではありません。聖書は真実の書物です。旧約聖書には、人間の歴史がたくさん記録されています。また、後に起こることが預言という形で記されています。聖書の中で預言された出来事は、ことごとく成就しました。聖書が正しいということは、歴史が証明しているのです。
この世の中で真実はなかなか信じない人が多いようです。また、真実は、政府やマスコミの情報操作によって一般の人々には知らされないこともあります。真実は多数決によって決まるものでもありません。「人間は死んだら終わり。死後の世界はない。死後の裁きはない。」というこの世の教えに騙されてはいけません。この世の中で何が真実なのかを見極める必要があります。真実はひとつです。聖書の中にこそ真実があります。

 

7月15日「ヘブル人への手紙9:27、28」

先日、私の従兄弟が他界しました。彼はクリスチャンではなかったので仏教式の告別式が行われ、自分も出席した際に従兄弟の奥さん子供たちが死別に苦しみ号泣する様子を目の当たりにして心が痛みました。多くの人たちが『縁起が悪い』などを理由にして死に対して問題を先延ばしにしています。果たしてそれは正しいのでしょうか?
答えは、否 です。なぜなら、死は皆さんの人生の中でのイベントの中で最も確実に起きることだからです。
しかし、私たちクリスチャンは死に対する問題に勝利しており、救いに対する確信を持っているゆえに、強く立って歩むことができます。
そのことを感謝しつつ何が起きようとも平安の中にいることを感謝しましょう。

 

7月8日「神様の計画」 エレミヤ書 29:11〜12

この箇所は国を失って意気消沈していたユダヤ人に預言者エレミヤを通して神様が語られた言葉です。神様により頼むなら願いは希望にかわり必ず計画が成し遂げられます。人生を捨てないで生きる秘訣はこの神様の計画を知ることです。偉大な計画を知っている者は人生にぶれが無くひとつの計画に向かって走り続けることができます。故スティーブジョブスはかつてペプシ社のジョンスカリーという重役をヘッドハンティングするときに「一生を砂糖水を売って過ごすのか、それとも世界を変えてみないか」と口説きました。彼は将来かなう計画を確信していました。私たちは聖書を通してこの世界の主権者神様の計画を知ることができます。まだこの計画(イエスキリストの十字架の死と復活)を知らない方は是非受け入れて頂きたいと思います。

 

7月1日「信ずべき言葉が与えられた」 ヨハネ4:43〜5

 ここに王室の役人が登場します。その息子が病気でした。役人は「イエス様だったら、息子の病気を治してくださる。」と思ってイエス様に会いに来ました。ところが、イエス様はその役人に対して「帰れ。」と言われたのです。厳しく、冷たい言葉に思えます。しかし、その役人は、本当に確かな信ずべき言葉がイエス様から与えられたのです。そのことは、この役人にとって恵みであり、幸いなことであったのです。
 何を本当に信じたらいいのか分からない世の中です。「これをしたら幸せになりますよ。」といったフレーズがたくさん出回っています。どれが真実で確かなものか分かりません。間違ったものを信じたがために、不幸になっている人達もたくさんいます。けれども、私たちには「これを信じたら間違いない、絶対に確かなものだ。」という神様の言葉が与えられています。そのことをどうか覚えて、神様に感謝し、喜んでください。

 


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6月24日「真実の救い」 Tコリント2:9   

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

十字架刑で処刑されたイエス・キリストは人生の敗者、これが人間の常識的な見方ではないでしょうか。しかし、真実は違います。イエス・キリストは死後三日目によみがえり、死に勝利されました。イエス様の復活は、決して空想上の出来事ではなく歴史上の事実です。多数の目撃者が存在し、記録に残る真実の出来事です。そしてキリスト信仰の基礎になっています。どんなに戦っても死に勝利することはできません。イエス様だけが、唯一死に勝利された方なのです。イエス様は十字架上で死なれることによって私たちの救いを完成し、よみがえることによってそのことが事実であることを証明されました。あとはあなたがそのことを信じるかどうか、それだけなのです。あなたも常識にとらわれることなく、神様が用意された救いを信じてくださいますように・・・。

 

6月17日「主の日」 2ペテロ3:1〜13

この聖書箇所に「主の日と」いうことばが使われています。これは、礼拝を指すわけではなく、この地上を裁く日のことをいっています。ここで、ペテロは警告しています。どんな人にでしょうか。それは、イエス様を信じたが、人生が変わらない、だから欲望のままに生きる人、つまり自分のために生きようとしてる人に対してです。この人達の言い分は世界は最初から変わってないということです。だから、世の中に希望をもっているのです。しかし、ここでもペテロはノアの洪水の例えを使い警告しています。ノアの洪水が起こったように、主の日は来るのです。そのときにすべては崩れ落ちます。 このように、この世の期待や望みは必ず崩れ落ちます。では、私たちは何に期待するべきなのでしょうか?それはイエス・キリストの福音です。天に行くことに希望をもってください。

 

6月10日「永遠のいのちを得るには」 マタイの福音書19章13〜22節

イエス様のもとに来たこの青年は、目的であった永遠のいのちを得られずに帰ってしまいました。財産を捨てることができるような意志が強く、行動力のある人間でなければ、永遠のいのちに預かれないのでしょうか。決してそうではありません。この青年はイエス様の言われたことが実行できず、失望してしまいした。でもできないのならできないなりに、「私には実行できるほどの信仰がありません。こんな私ですが、イエス様どうぞ何とかしてください。」と、イエス様について行くこともできたはずです。 私たちも、この青年のように、ある出来事によって絶望することがあるかもしれません。しかしその時、私たちは神様から去って行くのではなく、神様に委ねるのです。そして「罪汚れた私でも神様は愛し、私のためにイエス様を与えてくださった。イエス様は十字架の上で、自分が受けるべき罪の裁きを身代わりに受けてくださった。」ということをさらに覚えて、感謝することができるのです。

 

6月3日「天を仰いで」 第二コリント4章7〜15節

私たちは,この宝を,土の器の中に入れているのです。それは,この測り知れない力が神のものであって,私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは土のように弱く、無価値な存在でありもろくて壊れやすいが、神が私たちに与えてくださった救いの福音には測りしれない力がある。人を栄光から栄光へと変える力、死者をよみがえるらせる力がある。この世の中で神様に従って歩もうとする時、苦難や迫害に会うことがある。たとえ、四方八方ふさがれていても、上(天)は開いている。パウロの宣教の苦しみを通してコリントの兄弟姉妹たちは福音を知り、死から命へと移された。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 ヘブル12:11

 

 


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5月27日「人生の勝利者」

神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。  ヨブ記 26:7
 これは、今から3000年以上前に記された聖書の箇所です。当時の世界は天動説の時代であり、この御言葉は当時の宇宙観に正面から反するものでした。しかし時代の移り変わりとも共に地動説が発見され、聖書の記事が正しいことが証明されました。
 私たちの周りには様々な情報が存在します。しかしすべての情報が正しいわけではありません。国家やマスコミがウソの情報を流すことはよくあることです。何が正しい情報なのかをよく考え、判断する必要があります。
 聖書にはすべての人が死と死後の裁きへ向かっていると記されています。人間にとって最大の問題は死です。死の問題を解決することなくして人生の勝利はあり得ません。死の問題を解決できる方は、死からよみがえられた方(イエス様)をおいて他にはおられません。あなたもイエス様を救い主と信じ、真の人生の勝利者となってください。

 

5月20日「伝道者の書3章1節〜11節より」

月のメッセージにて『2012年人類滅亡説』なるものが噂になっている、とお話しましたが、最近のインターネットニュースの中で『2012年人類滅亡説が間違っていた』との記事を見ました。もしかしたら、その記事を読んで安堵した人もいらっしゃるかもしれませんが本当に恐れなければいけないのは何でしょうか?それよりももっと身近な『私たち自身の死』を私たちは恐れるべきではないでしょうか?もしも『明日あなたは死にます』と宣告されたなら、あなたはどんな行動を採りますか?不安なものはたくさんありますが、まず私たちの死後に対する備えをまず第一に考えることをお勧めします。

 

5月13日 「神様の大目標(全地球と人類のあがない)」

人間を取り巻く不幸をもたらすものには、悪魔が関与しています。聖書ははっきりと悪魔の存在を語っています(旧約聖書エゼキエル書28章,イザヤ14章)悪魔は人間に対し、神様を忘れて生きることに目をむけようとします。これが一番の罪です。罪は(1)死をもたらし(2)地球が悲しみの場所に(3)人間は悪魔の支配下に(4)住みにくい環境にしてしまいました。神様はそのままにせず、大目標として失われたものの回復=人間を悪魔の支配からの回復、被造物を元通りにする大目標を用意してくださいました。それが、イエス=キリストです。この購いの達成こそが神が人間を愛していることを示しています。(聖書には、1度目にイエス様が来られる預言は350箇所以上、将来2度目にイエス様が来られる預言は1,500箇所以上あります)

 

5月6日「山上の主イエス(右の目・右の手)」 マタイ5:27〜30

 「殺してはならない」「姦淫してはならない」はどちらも十戒の中に掲げられています。イエス様は、直接人を殺すことがなくても、口頭やメールで人を傷つけることも、罪であると指摘されました。姦淫というのは、結婚による男女関係以外に性を用いることです。イエス様は、情欲をいだいて異性を見ることも、神様の前では罪であると言われたのです。 すなわち心の中で考えたり、口に出したり、目で見たりすることさえも罪であり、神様の前にはみな罪人なのです。そして人間は自分の力では、決して地獄から救われないのです。しかし、イエス様は人の罪をすべて背負われ、身代わりに罪の刑罰を受けて死んでくださいました。そのことを信じた私たちクリスチャンは、完全に罪が赦され、地獄から解放されています。それだけではなく、イエス様は私たちを罪の支配からも解放してくださいました。そのことを確信しましょう。

 

 


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4月29日「エペソ5:8〜10」より

光と言いますと公明正大で正しい。暗闇は悪とか不正といった感じでしょうか?
私達自身が暗闇の中にいたというのではなく、私達自身が暗闇だったのに主にあって光となったとあります。質的に変えられたのだから、光の子供らしく歩みなさいということです。信じるために努力する必要はなく、信じる時に全ての罪を告白する必要はありません。
『私は罪人ですが、イエス様を神様を信じます。』
信じるための悔い改めは、一生に1回でいいんです。光の子供とされています。
光の子供らしく、生活の中でいつも祈り、感謝し、賛美し、歩めるならば幸いです。

 

4月22日「本当に価値あるもの」 Uコリント4:18

十字架刑は受刑者に苦しみを与える極刑でした。イエス様は十字架刑で死なれた後、墓に葬られました。墓には番兵が置かれ、弟子たちが遺体を盗むことは不可能でした。そのような状況でイエス様は復活し、墓は空っぽになりました。復活したイエス様は弟子たちに、全世界に出て行き福音(十字架の贖いと復活)を伝えるように命じられました。今日、日曜日が休みになったのは、復活したイエス様を礼拝するために信者たちが集まるようになったからです。
今の世に生きる私たちは、聖書の真理(預言)をとても理解しやすい時代に生きています。世の中に騙されてはいけません。真理は聖書の中にのみ存在します。本当に価値あるものは、死後の永遠(天国)です。どうかあなたもそのことに気付いてください。
私たちは目に見えるものではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 

4月15日「愚かな金持ち」 ルカ12:16〜21 

この世の中で生きていると「愚か」という言葉を聞くことがあります。ある人は試験に落ちたときに、ある人は場の空気に合わせないときにです。ですが、これらは本当の意味での「愚か」ではありません。では、本当の「愚か」とはどういう意味なのでしょうか?その答えはこの記事に登場する金持ちを見ればわかります。この金持ちの心の中にあったことは、自分のことだけでした。自分さえ良ければいい、つまり自己中心だったのです。そこには、この世界を創造された方であり、絶対的な存在である神様の存在がなかったのです。実はこのこと、神様の存在を認めない・知らないことが「愚か」であるということなのです。聖書は、聖書を離れても、神様を無視して生きても虚しいと言ってます。この真実を覚えてください。

 

4月8日「与えることがもたらすもの」

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6章38節)聖書には「与える」という言葉が2,162回と、他の言葉よりも群を抜いて多く使われている。神様はそのひとり子を「お与えに」なったほど私たちを愛されように、「与える」ということを勧められている。与える(ささげる)ことは以下のようなことをもたらす。1.神様にならうものとなる 2.神様に近づくことができる 3.物資主義に対する防衛手段となる4.神様への信仰(信頼)を強める 5.永遠への投資となる 6.祝福をもたらす7.自分に幸せをもたらすまさに「受けるよりも与える方が幸いである」通りである。


4月1日「山上の主イエス(敵を愛せよ)」 マタイの福音書5章38〜48節

 「目には目を。歯には歯を。」というのは、やられたらやり返す、復讐と報復の原理です。その根底にあるのは憎しみです。しかしお互いに報復を繰り返していくと、憎しみはエスカレートする一方です。そこから抜け出す原理があるとしたら、イエス様の言葉「右の頬を打たれたら、左の頬も向ける」しかありません。
 また、私たち人間にとって愛せない存在、それが「敵」です。イエス様は「敵を愛しなさい。」と言われました。この言葉は「この世界には愛以外、本当の人間関係は存在しない。愛こそが私たち人間を本当に生かすことができる。神様から与えられた命を、その愛に賭けて生きていく者になれ。」という宣言なのです。そういう生き方をするためには、私たちはまず、本当の愛に生きた方を知る必要があります。それがこの言葉を語られたイエス様、ご自身なのです。まさしくイエス様こそが「右の頬を打たれたら、左の頬を向ける」ことができた方、「敵を愛する」ことができた方なのです。

 


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3月25日 「底なし沼からの脱出」  使徒の働き4章12節

この方以外には誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としてはどのような名も、人間に与えられていないからです。
宗教評論家のひろさちや氏は、キリスト教について次のように語っています。
全ての人間は底なし沼の中にいる。だから誰も他人を救うことはできない。イエス・キリストは自分の体を踏み台にして、底なし沼の中から脱出できるように、自分の体を差し出してくださった。これが十字架による救いの意味であると
キリスト信仰における救いの大前提は、@「自分が底なし沼の中にいること」A「イエスキリストが救い主であること」を認めることです。人が救われるには様々な導きがあります。初めて教会に来てすぐに信じる人もいます。また何年も教会に来た後に信じる人もいます。この世に人が救われる方法(真理)はひとつしかありません。また自分の人生の責任をとるのは自分しかいません。あなたもぜひイエス様をご自身の救い主と信じ、底なし沼から脱出してください。

 

 

3月18日「信仰によって」ヘブル11章1〜40節

『信仰』という言葉がありますが、一般的に辞書に記されているものと聖書に書かれている意味は少し内容が違ってきます。聖書の言うところの『信仰』の意味は『望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させる』というもので原語では『所有権保証書』という書かれ方をしています。この聖書の約束は確かで、私たちはこの聖書の約束により、確実に天国へ行く者とされています。昔の信仰者に習って、私たちも神様からの約束を信じて、揺るがない信仰の道を歩むことをお勧めします。

 

3月13日 「しっかりとした土台に家を建てる」 マタイ7:24

 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

 この箇所はイエス様が十字架にかかる前に最後に語ったたとえ話です。人間が土台としているものが確かなものかどうかの真価を問われるのは、人生の危機に直面した時です。死別、病気、引きこもりなど、、岩が土台の家は揺るぎません。しかし、砂の上の家は嵐に翻弄されて揺らいでしまいます。岩であるしっかりとした私たちの土台とは何でしょうか?それは聖書です。イエス キリストです。これ以外には救いはありません。

 

3月11日「山上の主イエス(狭い門から)」マタイの福音書7章13〜14節

イエス様が言われた「狭い門」というのは、当時のイスラエルにおいて差別されている人たちや社会から見捨てられた人たちが利用するための門でした。誰も見向きもしない目立たない門だったのです。その狭い門を通るためには、差別されたり、社会から見捨られる覚悟が必要なのです。永遠の命を得るためには、自分の持っているプライドを捨てることができるのかどうか、そのことをイエス様は私たちに問いかけています。多くの人は神様の存在、イエス様の復活、あるいは聖書の真実性を理解しても、イエス様を自分の救い主として受け入れることができません。神様に対するプライド、まわりの人に対するプライドが妨げになっているのです。
けれども知ってほしいことがあります。イエス様は、神様という最大のプライドを捨てて人間となり、人間の身代わりになって十字架にかかって死んでくださいました。イエス様が究極の「狭い門」を通ってくださったからこそ、人間に罪の赦しと永遠のいのちへの道が備えられたのです。

3月4日「これがすべて」 伝道者の書12章

この章はソロモンが老人について記述している箇所です。人はあらゆる器官が衰えてしまいます。
彼はこの世で言う栄華を極めましたが老人になると栄華は何の役にも立たず、人は墓に真っ直ぐに向かっていると警告しています。…5節<だが,人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。>しかし、聖書にはその問題を解決する秘訣があると彼は教えています。聖書の言葉こそ正に、〔羊が羊飼いに導かれて正しい方向へ向かう道しるべ〕であります…11節
知恵ある者のことば【聖書】は突き棒【羊飼いが羊を導く棒】のようなもの、編集されたもの【聖書】はよく打ちつけられた釘【幕屋を地面に打ち付ける重要な釘】のようなものである。これらはひとりの羊飼い【神様】によって与えられた。
これが全てです…11節 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

 

 


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2月26日「死への大行進」

 アフリカ南部のカラハリ砂漠に、スプリング・バックというカモシカが住んでいます。普通は5〜30頭の小さな群れをつくっていますが、ある日、突然、一ヶ所に集まりやがて数万頭の大群になることがあるそうです。それからリーダーの鹿を先頭にゆっくり歩き始めるのです。途中にある草を食べながら進むのです。初めはゆっくり歩いていたのが、せり合いが激しくなり、だんだんスピードを増してゆきます。そしてついに何万頭という群れが全速力で走り出すのです。リーダーのシカは、初めは新しい場所へ仲間を連れて行くつもりだったのでしょうが、やがて目的をすっかり忘れて、ただ走ることしか考えずに、ひたすら前へ前へと突っ走ります。砂けむりをあげて疾走するカモシカの群れは、砂漠を横切ってついに海岸に出ます。が、先頭のシカたちは後から押されるものすごい力で止まることができず、どっと海中になだれ落ちていき、やがて海岸はあわれなスプリング・バックの死体でうずまるのです。
 人は海岸に浮かぶスプリング・バックの死体を見て愚かと思うことでしょう。が多くの人がスプリングバックと同じ人生を歩んでいます。自分が生きている目的をよく考えずに周りの人が走っているから同じように自分も走っている。正しい判断ができずその先にある死の存在に全く気づいていない人がたくさんいます。聖書はずっと前からこのことを警告しています。
「罪からくる報酬は死です。」(ローマ6:23)
「人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」(ヘブル9:27)
 私たちを待ち受けている死の問題を解決し、死後の裁きから救い出すことができる唯一の方法は、イエス様をご自分の救い主と信じることです。あなたもイエス様を信じて真の価値ある人生を歩んでくださることを心よりお勧めいたします。

 

2月19日「ユダの手紙20〜23節より」

ユダの手紙のこの箇所にはクリスチャンの5つの側面が記されています。1.学ぶ人  2.祈る人  3.頼る人  4.希望がある人  5.あわれみ深い人1)学ぶ人  「聖い信仰(20節)」=伝えられた信仰、つまりイエスキリストによって救われたことを信じることです。これは聖書のみことばを学ぶことによってハッキリと理解することができます。2)祈る人  私たちの祈りは神様が疑い深い私たちに与えられた行為といえます。3)頼る人  クリスチャンは何に頼っているのでしょうか?行いでしょうか、経験でしょうか?この答えは「神の愛のうちに自分自身を保つ(21節)」というみことばに記されています。「神の愛うちに」=福音、恵み、救われたことに頼るということです。4)希望がある人  目標をもつことはよいことですが、本当のゆるがない最終的な希望をもつのがクリスチャンです。それはイエス様がこられることを待ち望むことです。5)憐み深い人  人にとって最大の失敗は何でしょうか?火の中に入る事、つまり死後永遠の刑罰にいく事です。それはこの世の失敗に比べるととるに足らないものです。では本当の親切とは何なのでしょうか?永遠の刑罰を伝えること。それができるのはクリスチャンだけです。それが本当の憐みなのです。

 

 

2月12日「自己過信の高ぶり」 ヤコブの手紙4章10節〜17節

私たちが高ぶる時、
1.互いに悪口を言う
2.隣人をさばく
3.未来は自分の手の中にある
4.主の御心を尊重しない
5.なすべき正しいこと(へりくだること)をしない
などの愚かな歩みに陥ってしまうものである。
神様は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる方である。
私たちは人に対しても神様に対してもへりくだり、自分の人生を神様に委ねて歩む時、神様の栄光を現す器として、輝けるものである。

 

2月5日「山上の主イエス(地の塩・世の光)」 マタイ5:11〜16

イエス様が語られた場所はイスラエルでした。ここでは土地に塩分が多く含まれていて、植物がたいへん育ちにくいのです。また砂漠では太陽の光によって暑くなり、命の危険にさらされることもあります。ここでは塩や光は嫌われている存在でした。ですからイエス様は「塩のように世で役立つ人になれ。光のように世を照らすような人になれ。」ではなく、「私に従っていくならば、あなたがたは塩や光のように嫌われます。」と言われたのです。悪魔に支配されているこの世はイエス様を見捨てました。ですからこの世でクリスチャンは嫌われて当然なのです。
けれども神様は、私たちを永遠の刑罰である地獄から救うためにひとり子イエス様を犠牲にしてくださいました。私たちは、すべてを支配しておられる神様に愛されているのです。そのことに比べると、この世の人に嫌われることは小さなことです。神様の愛を知っているクリスチャンは、人の評価や世の中の基準にとらわれない自由な生き方ができるのです。

 

 


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1月29日「聖書の中心 イエス・キリスト」 ローマ1:20,ヘブル9:27,ローマ6:23 

聖書には「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず・・・」「罪からくる報酬は死です。」「人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」と記されています。
すべての人間には100%の確率で死がやってきます。しかしそれで終わりではありません。それと同じく100%の確率で死後の裁きが待っているのです。なぜでしょうか。それは人間が罪を持っているからです。罪は必ず裁かれなければなりません。もし世の中に全く罪のない人がいるとしたら、その人に裁きはありません。しかしそんな人はいません。ただ一人の人を除いて・・・。
その方とはだれでしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストは何の罪もなかったのに十字架上で処刑されました。それはこの世の全ての罪人の身代わりとなるためだったのです。そしてイエス・キリストを信じる者は、死後の永遠の裁きから救われ、魂の救いを得ることができるのです。この世の中にこれ以上に素晴らしいものは存在しません。あなたも是非イエス・キリストによる救いを信じてくださいますように心よりお勧めいたします。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども信じており、言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに踊っています。これは信仰の結果である魂の救いを得ているからです。第一ペテロ1:8.9

 

1月22日「真理は一つ」  ヘブル9:27 ローマ5:6-8,6:23

 人は死んだ後どうなるでしょうか。消える・生まれ変わる・天国・地獄等いろいろな説があります。何が正しくて何が間違っているのか本当のところ誰にもわかりません。それは死の扉の前に立たされたとき、初めてわかることだからです。でもいろいろな死後があるわけではありません。真理は一つしかないのです。
 聖書には、「すべての人は一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」と記されています。今から約2000年前、イエスキリストは十字架に架かり死なれました。イエス様は何故十字架上で死なれたのでしょうか。それは私たちの身代わりとなり、信じる者を死後の永遠の裁きから救うためだったのです。
 本当に幸せな人生とは、人間にとって最大の問題である死の問題を解決し、死後の永遠の裁きから救われ天国へ行けることです。この救いを人間に与えることができる方は、イエスキリストだけです。真理は一つなのです。

 

 

1月15日 「ルカ12章16節〜21節・ルカ16章19節〜31節」 

2012年が始まりました。巷では『2012年人類滅亡説』なるものが噂になっているようですが、私はかつてのノストラダムスの時のようなものだと思っており、たいして怖れていません。しかし、一般的には相当真実味を帯びた説明などされているようです。たしかに未来に対する保証がない人々は不安に思われるかもしれませんが、実は本当に不安に思わなければいけないことはもっと身近にあることを忘れてはいけません。人類全体の滅亡も怖いことですが、『私たち自身の死』のほうが確実に来ますし、それが明日に来てもおかしくはないのです。そのための準備はできていますか?私たちの死後に対する備えをまず第一に考えることをお勧めします。

 

 

1月8日「福音によりクリスチャンは【神の子】に」

「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」
(ヨハネ20:17)
イエス様だけがただひとりの神の御子でした。つまり神を「父」と呼べるのはイエス様だけです。しかし私たちを人間を愛するが故、イエス様はその身分を捨て、十字架上で罪人となられ、罪人の身代わりとなり死んで下さいました。イエス様はご自身の神の子としての身分や立場を人間に差し出し、罪人となり、父なる神様から見捨てられたものとなって死なれました。そして、復活の後、購いが完成したとき、福音(十字架と復活による罪からの救い)により、イエスの父が同時に「私たちの父」となりました。

 

1月1日「ベツレヘムの主イエス2」 マタイの福音書2章1〜23節

 東方の博士たちは長い旅をして、ようやく幼子のイエス様に会うことができました。そして彼らは幼子を礼拝しました。これは彼らに信仰があった証拠です。ただ彼らは、幼子がすばらしいことを言ったから、すばらしいことをしたから、この幼子が救い主キリストであることを信じたのではないのです。彼らは旧約聖書に記されている救い主、そしてその預言を知っていました。だからこそ、自分たちの目の前にいる幼子が救い主であることを信じることができたのです。
私たちクリスチャンも同じです。私たちは誰一人として、イエス様が言われたことを直接聞いたり、イエス様がされたことを直接見てはいません。けれども私たちはイエス様が神様であり、救い主であることを信じています。なぜでしょうか。それは聖書に記されているからです。聖書に記されている神様のひとり子であり、救い主であるイエス様を信じることができます。そしてこの博士たちと同じように礼拝できるのです。

 

 

 

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