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12月11月10月9月8月7月6月5月4月3月2月1月


12月26日 「真の福音」 第1コリント 15章1〜8節

 「モキュメンタリー」という言葉があります。これは「ドキュメンタリー」という単語をもじって造られた言葉で「真実のように見せかけて精巧に作られた嘘」などの意味があり、映画の手法として最近用いられてます。
 しかし、どのように精巧なモキュメンタリーでも、ちゃんとした調査や歴史的証明の定義に当てはめることで嘘であることが容易にバレてしまいます。
 対して、聖書に記されたイエス様の復活や様々な奇跡は2000年経った今でも、誰もその真実性を否定できる者はいません。こちらは正にドキュメンタリーです。
 このしっかりとした聖書の真実性を学びつつ、喜びの人生を歩むことをお薦めします。

 

12月12日 「イエス様が語られた3つの大切なこと」 ルカ24:46〜47 

イエス様が復活後語られた言葉にわたしたちに対する3つの大切なことが
要約されています。
1:キリストは苦しみを受ける。(ルカ23:32〜48)
2:キリストは三日目に死人の中からよみがえる。(ルカ24:1〜53)
3:罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(Tコリ15:3〜20)
イエス様は十字架上で、あざけりの看板を掲げられ、酢いぶどう酒の差し出しを拒まれました。このぶどう酒は本来痛みを少しでも紛らわすことのできるものですが、それを拒み苦しみを正面から受け入れ私たちの罪のために痛みをおってくださいました。
左右にかかった強盗たちのことばには大きな違いが見られます。一方はイエス様を「あなた」と呼び、他方は「イエスさま」と呼んでいます。「イエスさま」と呼んだ強盗は、本当のイエス様の十字架の意味を感じたのではないでしょうか?
わたしたちも神様に不平を言う立場ではなく、素直に何事でも「イエスさま」と呼べる者でありたいです。

 

12月5日 「霊的な礼拝とは?」 ローマ12:1〜3


 私たちクリスチャンのからだは聖霊の宮であり、聖霊なる神様が宿っています。でも聖霊の宮といっても、からだには罪の性質があります。ですからクリスチャンも罪を犯してしまうことがあります。私たちは自分の力で、罪を解決することは決してできません。しかしイエス・キリストが、私たちの罪のために十字架について死んでくださいました。罪の刑罰を私たちの身代わりに受けてくださいました。私たちは十字架のあがないによって、罪なき者とされ、永遠の滅びではなく、永遠のいのちが与えられています。まずこのことを信じ続けることです。これが「霊的な礼拝」なのです。この「霊的」というのは「知的な」「理性的な」という意味です。感覚や感情ではなく、知性や理性で神様との関係を確認し、信じ続けるということなのです。私たちクリスチャンはいつでも神様との関係を確認できるし、そのたびに神様に愛されていることの感謝ができるのです。

 

 


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11月28日 「燃えさかる火の試練」  Tペテロ4:12〜

 愛する者たち あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろキリストの苦しみにあずかれるのですから喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも喜びおどる者となるためです。
愛する者たちとは、イエス様を信じて救われているあなたがたという意味です。ですからこの手紙はキリスト者(クリスチャン)に宛てて書かれた手紙ということができます。
あずかれるとは、分かち合うという意味です。神様と試練を分かち合うことによって、(神様と)より親密な関係になることができるのです。
私たちがこの世でキリスト者として生きていると、様々な試練・苦難・苦しみ・おびやかしなどに会います。しかしそれらは全て神様が私たちの信仰の成長のために与えられたものです。それらの試練を喜び感謝して歩むことによって神様とより親密な関係になり、さらなる信仰の成長を遂げることができるです。
神様が与えられた永遠の救いは、この世の全ての富を合わせたよりもすばらしく、何物にも変えられない尊いものです。あなたもみことばにより救いの確信を持ってくださいますように

 

11月21日 「聖書は神様の言葉である」 Uペテロ1:21

クリスチャンはイエス・キリストが私たちひとりひとりの罪の罰の身代わりとなり、十字架に架かられたこと、また自身が神であられることを示すために三日目の朝に復活されたことを受け入れれば死後に永遠の裁きである地獄ではなく天国に行くことを約束されていることを信じています。では、その根拠はどこにあるのでしょうか?答えは聖書にはっきり書かれているということです。この聖書は世の中の宗教にある聖典といったものとは全く異なる本であり、聖書に書かれていることは真実なのです。聖書がなぜ真実であるということが言えるのかというと、@保存性)世界で今も売れ続けており、ベストセラーとなっていること)約2000年前に完成してから書き換えがないことA統一性 1600年以上かけて、40人以上の著者によって書かれたこと。B預言の成就(例 イスラエル建国ネヘミヤ1:8〜9)C聖書やクリスチャンが書いた書物以外の文献においての記述Eイエスキリストの使徒達の復活後の行動や殉教 といった事実が存在するからです。根拠をもってより確信を持ってイエス様の救いに感謝し歩みましょう。

 

11月14日 「数学と創造主」 

「神は存在する。なぜなら数学が無矛盾だから。そして悪魔も存在する。
なぜならそれを証明することはできないから」−数論研究者 アンドレ・ヴェイユ−
数学の世界では友愛数、完全数、不足数、過剰数などすばらしい秩序をもって、成立しているルールがあります。このルールを小説[博士の愛した数式](小川洋子著)の主人公博士はこう表現しています。
『数を生み出した者に比べ,我々人間はあまりにも愚鈍だ。』
『そう,まさに発見だ。発明じゃない。自分が生まれるずっと以前から、誰にも気づかれずそこに存在している定理を,掘り起こすんだ。神の手帳にだけ記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなものだ。
その手帳がどこにあって,いつ開かれているのか,誰にも分からない』
聖書には神様のルール・恵みが不変であることが書かれています。
主の恵みは,とこしえから、とこしえまで,主を恐れる者の上にある 詩篇 103:17

 

11月7日 「神に選ばれた者2」  ローマ9:19〜24

どんな人間も死を迎えます。そして死後に神様の裁きを受けます。
この裁きは完全に正しい神様の基準で行われます。神様の裁きは完全に公平です。永遠の尺度で考えれば、神様は公平で正しい方であると言えます。そしてその神様の正しさを基準にするならば、人間は神様から裁かれて永遠の滅びである地獄へ行って当然の存在なのです。
 私たちクリスチャンも、かつては地獄へ行くべき者でした。けれども罪を赦されて地獄から救われました。私たちがイエス様の救いを信じる信仰を持つことができたからです。なぜ信仰を持つことができたのか。それは神様が私たちを選んでくださったからです。
 神様は人間を地獄から救うために、イエス様を犠牲にしてくださったのです。そのことを信じた私たちを用いて神様はご自身のすばらしさを表そうとされています。ぜひ神様の選びを覚えて、神様に感謝してくださいますように。

 

 


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10月31日 「子なる神イエス・キリスト」  第一コリント1:18

私は、今から約31年前に神様を信じました。当時の私は神様の存在については理解ができ、信じることができたのですが、イエス様だけが救い主であるということは、簡単に信じることができませんでした。また聖書の言葉もあまりよく理解できませんでした。その後先輩のクリスチャンにいろいろと話をしていただく中で、イエス様を救い主と信じる決心をしました。それからは不思議と、聖書を理解できるようになり、聖書が神様の言葉であるという御言葉(第2テモテ3:16)に確信を持つことができました。神様の導きのおかげだと思います。
十字架の言葉は滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。
 ヨハネの福音書1章には、イエス様は神様ご自身が人となられた方であり、地球や宇宙はイエス様によって創られたと記されています。また人となってこの世に来られたイエス様は、今から約1960年前、全ての人の罪の身代わりとして十字架に架けられ死なれました。また死後三日目によみがえり、救いの道を完成してくださいました。多くの人々は今、世の中の常識や自分自身の経験を頼りに生きていますが、それらは時とともに変化します。世の中がどんなに変わっても決して変わることのない聖書の言葉を頼りに生きていかれることをお勧めします。
神様は十字架の血によって(神との)平和をつくり、御子によって万物をご自分と和解させてくださったからです。コロサイ1:20

 

10月24日 「イスラエルに関する聖書の預言」

 あなたの神、主はあなたを捕われの身から帰らせ、あなたを哀れみ、あなたの神、
主がそこへ散らしたすべての国々の民の中からあなたを再び集める。たといあなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主がそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主はあなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。 申命記30:3〜5 (著作年代:紀元前1440年頃)
 紀元前586年、イスラエルは第二バビロン帝国によって滅ぼされました。その後イスラエルは、バビロン→メディアペルシャ→ギリシャ→ローマによって支配されました。イスラエル人(ユダヤ人)たちは全世界に散らされ、イスラエルという国は二度と復興することがないと世界中の人々に思われていました。しかし聖書は、イスラエル人が全世界に散らされるはるか昔から、イスラエル民族の離散と共に散らされた地からやがて集められることを預言していたのです。
 1948年イスラエル共和国が建国しました。約2500年間にわたって国を失っていたイスラエル人が、聖書の預言通り、自分たちの国を復興したのです。このことは全世界に衝撃を与えました。二度と復興することはないと思われていたイスラエルが復興したからです。この時、聖書の預言が成就しました。人間の常識では到底不可能と思われていた預言が的中した瞬間です。このように、聖書の預言は必ず成就いたします。あなたも自分の常識だけに頼るのではなく、聖書の言葉に耳を傾けられることをお勧めいたします。

 

10月17日 「迫害者サウロ」  使徒 9章1節〜22節


クリスチャンを迫害していたサウロが、奇跡を通して方向転換し福音伝道の道に進むきっかけになった有名なエピソードです。「目からウロコ」という諺の語源にもなったという説もあります。さて、若い頃の私はこのエピソードを読むうちに少し疑問に思うことがありました。それは「神様は何故、このタイミングでサウロを改心させたんだろう?もっと早くサウロに現れていれば、もっとたくさんのクリスチャンが殺されずに済んだかもしれないのに…」という疑問でした。しかし、聖書を学ぶと、『神様は時間の初めから終わりまで同時に見ることが出来る方』であり、それゆえ『神様の計画は完全なもの』ということがわかりました。実際にこのあとサウロは「パウロ」と名前を変えて、広大な地域への伝道を開始します。その労力は計り知れないほど大変なものだと思います。その原動力の一つには「パウロが多くのクリスチャンを殺してしまったことへの後悔」もあったのかもしれません。それは天国でパウロさんに直接聞けばわかりますが(笑)
私たちも多くの困難や悲しみに疑問を持つことがあるかもしれません。しかし、「神様は命を捨てるまでに私たちを愛してくださる」という真実をいつも心に留めて、平安な信仰生活を歩むことをお勧めします。

 

10月10日 「創世記の重要性」 創世記1章-2章

聖書は66巻、1189章、1900頁にわたる、神と神の救いの道を掲示するための模範解答です。
新約聖書には創世記の直接引用 165箇所あります<その中の100カ所が11章までを引用>。
創世記による歴史的真実に相反する考え方には、、、
無神論(神はいない)/汎神論(すべては神である)/多神論(多くの神が存在する)/二元論(善と悪の2つの神がいる)/進化論(創造を否定する)などがあります。しかしそれらの論は最後まで論であり、聖書の教える創造論とは相反するものです。
創世記を見ると人間の「生きる目的」「罪と死の問題」「人間(男と女)の起源」「宇宙の成り立ち」が網羅されています。
つまり聖書を読むことで「人生の全体像」を知ることができます。

 

10月3日 「神に選ばれた者」 ローマ9:6〜24

 私たちクリスチャンは神様を信じ、イエス様を信じた者です。
実は私たちがクリスチャンになることができたのは、神様の選びがあったからです。私たちが選ばれたのは、私たちの性格、信仰、行いによるものではありません。神様が私たちを選ばれたのは、この世界が造られる前であったのです。ですから私たちが選ばれる理由など全くないのです。
 私たちは、神様によって造られたにもかかわらず、神様を無視し、神様から離れていました。そして生きていく中で数々の多くの罪を犯してきました。今なお罪を犯し続けています。私たちは神様によって罰せられ、地獄で永遠に苦しむべき存在です。そんな私たちがイエス様の十字架のあがないによって罪を赦され、天国へ行ける存在になったのです。
行いや努力によるものではありません。神様の選びは、神様の恵みなのです。神様に選ばれたこと、救われたことを覚えて、神様に感謝してください。そして喜んで歩んでください。

 

 

 


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9月26日 「価値ある人生」 ヘブ3:4 創2:27 イザ43:7 ピリ1:21 マタ5:4 伝7:2

「3−4=0」これは人生を表す式です。3はお産すなわち生まれることを表しています。4は文字どおり死を表しています。人は死んだら0になる。何も残らないという意味です。またこの式にはもう一つの意味があります。人は死んだら0(霊)になる。という意味です。肉体は死んだら滅びますが、霊は死なずに永遠に生き続けるからです。
多くの人は自分がうまくいっているときは、他人の言うことを聞こうとしません。また他人は死んでも自分は死なないと思っています。しかし全ての人に死は確実にやってきます。そのときイエス様を信じていなかったら大変です。永遠の裁きへ行ってしまうからです。人はこの世でどんなに多くのものを得ても死の前には無力です。死後の世界には何一つ持っていくことはできません。そんな私たちにイエス様はこの世で一番価値あるもの(永遠の裁きからの救い)をご自身の命と引き替えに与えてくださいました。イエス様がくださる救いは、死をも乗り越える永遠に有効な救いなのです。
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこにはすべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。伝7:2

 

9月19日 「神は私たちの味方」 ローマ8:31〜39

 私たちはイエス様を信じても、肉体は何も変化していません。私たちの内なる人は神様を愛し、神様に従おうとします。けれども外なる人は神様から離れ、罪を犯すことを好みます。それによって私たちの霊は苦しむのです。そして悪魔は巧妙に「それでもおまえはクリスチャンか。」とか「おまえのような者は神様に見捨てられる。」とささやきます。しかし、そのような時に「そうではない。あなたは義と認められている。」と、イエス様は弁護してくださいます。そして私たちを守り、導き、支えてくださっています。
 神様はすべてのものを造り、支配しておられる方です。被造物はどのような戦いを挑んでも、神様に勝利することは不可能です。その神様が私たちの味方です。そして私たちを「見捨てることはない。離さない。」と約束してくださっています。この神様を愛し、神様に従うことこそ、最高の生き方なのです。

 

9月12日 「親切なサマリヤ人」 ルカの福音書10:30〜37


自分の立場、能力、状況を把握し判断するというのはいろんな
場面で大切なことです。この聖書のたとえ話は私には印象深い箇所です。
サマリヤ人が自分の時間やお金を犠牲にし強盗に襲われ死にかかっている人を助けるという行動から学べます。
本来なら敵対していた立場、民族なのに可哀想に思い助けたイエス様と私との関係と似ています、イエス様の十字架がなければ人は救われません。
先入観からサマリヤ人の模範的な行動に目が向きますが、それも一つです。
実は強盗に襲われ道に倒れ傷に苦しみ死にかけている人こそ自分の姿である罪の中で死にかけていた私が自分の罪を認めイエス様の十字架と復活を信じることで救われます。そこに神様の愛と恵みがあることを覚えることが出来るなら感謝です。

 

9月5日 「サマリヤ人のたとえ」 ルカの福音書10:30〜37

 この聖書箇所は2つのことを語っています。一つ目は人間と世の中の関係を
語っています。祭司やレビ人は当時のユダヤの社会では地位のあるもの、世間では立派な人と考えられていました。この人たちが半殺しになっている人にとった行動とは助けることもなくそのまま通り過ぎることだけでした。半殺しになっている人は私たち人間を、レビ人や祭司はこの世の中表しており、レビ人や祭司が半殺しになっている人を放っておいたように、この世の基準で見たときにすばらしいものや考えであっても永遠の地獄に向かっている私たち人間を救うことはできません。
 二つ目は人間と真の神様の関係が記されています。あとに通ったサマリヤ人は混血のユダヤ人であり、純血のユダヤ人とは対立していました。しかしこのサマリヤ人は半殺しにあった人を助けました。またこの人に対してお金という犠牲を払いました。このサマリヤ人はイエス様を表しています。イエス様はサマリヤ人のようにイエス様を本来無視し敵対していた人間に手を差し伸べられました。それはデナリを払ったようにイエス様自身を私たちを罪の罰から救うために十字架にかかられることでした。真の救いはイエス様しかいないのです。

 

 


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8月29日 「本当の希望はどこに?」 ヨハネ6:27

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
ビッグイシューという雑誌を最近読みました。ご存知の通りホームレスの人たちが仕事としてこの雑誌をビッグイシュージャパンから140円で仕入れて300円で売り、160円を自分の利益として生活の為に稼いでいます。若年化してきているホームレスは今や政府の発表の10倍の数の人たちが路上生活やネットカフェ難民含め増加の一途を辿っています。ビッグイシュージャパン代表者の佐野章二さんはその著書『ビッグイシューの挑戦』の中でホープレスからホームレスへ、という表現をされていました。多くの人は家を失うだけでなく、生きる希望を失いホームレスになると語られていました。本当の希望はどこにあるのでしょうか?答えは聖書の中にあります。なくなる食物のためではなく永遠に至る食べ物、つまりイエス様を受け入れることで私たちには本当の希望がわきおこります。

 

8月22日 「死後・永遠・天国・地獄について」

ダニエル12:2.3 マタイ25:46 ヨハネ5:29 黙示録20:4.5 ヘブル9:27
ヨハネ3:36 マタイ13:41.49 黙示録20:11〜15ピリピ1:21〜23
真理とは何でしょうか。人がどんなに考えてもその答はわかりません。死後の世界はあるのでしょうか。一度死んで死後の世界から生きて帰ってきた人はいないのでそれもわかりません。でも聖書の中にその答があります。もし死後も永遠も天国も地獄もないのなら聖書はただのうそつきの書物になってしまいます。聖書は決してうそつきの書物ではありません。聖書は神様が人類に与えた究極の書物です。聖書が人類の歴史に与えた影響力は計り知れません。世界の法律・人権・男女平等・福祉の基本は聖書に中にあります。真理は聖書の中にあるのです。そのことを信じる者は少数派かもしれません。でも人数は関係ありません。聖書の正しさは人類の歴史が証明しているのです。

 

8月15日 「ヨブ記 1:1〜12」


夏になると怪談話などがよく聞かれ、多くの未信者の人が幽霊の存在を信じているようですが、聖書の観点から見れば人は死後に必ず裁かれるので幽霊の存在はナンセンスです。しかし、世の中には私たちの理解を超えた不思議なことは起きないのでしょうか?答えは、、、起きることもありうる、です。
聖書にははっきりと悪魔・悪霊の存在が記されており、ヨブ記から読み取ると悪魔・悪霊は常に私たちの周りを歩き回っていると記されています。悪魔や悪霊は常に、未信者は神様を知らぬように、クリスチャンには神様を見失ってしまうように、狡猾な働きをしています。私たちはどんな試練の時であっても、いつも御言葉に堅く立ち、神様を信頼して歩んでいきましょう。

 

8月8日 「主が戸を閉ざされる前に」  創世記:6〜8章

ノアはこの時代神様が唯一神様に従っている人間だと認めていました。堕落し、神様を無視している人間を水でもって滅ぼすと神様はノアに仰せられました。箱船を造り、そこにノアの家族ときよい動物を入れなさいという命令に対しノアは実に100年間神様の命令に従い、周囲の反対、ののしりをよそに作り続けました。とうとうその時が来て主は全ての肉なる物の雄と雌が箱船に入ったとき、神様はノアのうしろの戸を閉ざされました。
 現代の私たちも全て神様の決定により生かされ、福音を聞き、そして命を取られます。その時は主(神様)が決めるのです。是非神様の愛を主が戸を閉ざされる前に知ってください。

 

8月1日 「内なる苦しみ」 ローマ人への手紙8章18〜27節

 私たちクリスチャンは死後の永遠の苦しみから救われていますが、生きていく上での苦しみが2つあります。ひとつはこの世の迫害による外からの苦しみです。もうひとつは聖霊によって引き起こされる「内なる苦しみ」です。
私たちはイエス様を信じた時に、新しく生まれ変わりました。聖霊なる神様が、私たちの内に宿りました。しかし肉体は変化していません。私たちの内なる人は神様を愛し、神様に従おうとします。けれども外なる人は神様から離れ、罪を犯すことを好むのです。それによって私たちの霊は苦しむのです。これはクリスチャンとして避けられない苦しみです。でも私たちのからだは、やがてイエス様が再び来られる時に、罪のない完全なからだにつくりかえられます。
 そして私たち受ける苦しみ以上の苦しみを、神様ご自身が受け入れられたことを知ってください。それは罪ある人間を赦すために、イエス・キリストを捨てられたという苦しみです。人間を愛するがために、神様は最も愛されているひとり子を犠牲にされたのです。

 

 

 


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7月25日 「幸せな人生とは」  詩篇14篇

愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしいことを行なっている。
 ここに出てくる神とは、天地万物を作られた真の神様のことを指しています。人間が作った作り物の神様いわゆる偶像は含んでいません。真の神様の存在を認めるかどうかは、人間の幸せを考える上で非常に重要です。
 世の中には2つの考え方が存在します。@人間は偶然に自然発生した。A人間は神(創造主)によって創造された。@は進化論です。進化論に基づいた人生では自分の存在理由がないので、人生の最終目的もありません。聖書はそのような生き方を愚かであると言っています。Aは創造論です。創造論に基づいた人生では人間は神によって創造されたので、神様の栄光を表すために生きるというはっきりした目的があります。聖書はそのような人生を価値ある人生であると言っています。
 人間にとって、幸せな人生とはどっちでしょうか。自分の存在はただの偶然であり人生には何の目的もないという人生、一方自分は神によって創造され、生かされ、神様の栄光を表す目的のために生きるという人生、あなたはどちらの人生に価値を見出されますか。

 

7月18日 「神様の存在と御性質」  創世記1章

 先日、CNNで「鶏が先に生まれたか卵が先に生まれたか」というテーマに
イギリスの研究チームが一つの答えをだしたと報じられました。それは、鶏が先に生じたというものでした。長らくこの議論は論じられてきましたが、実は聖書には2000年以上前にこの答えは示されていました。また、だれが生物を創ったのかの問いにも聖書は答えをだしています。それは創造主なる方である真の神様であることです。その神様の御性質の一つに三位一体という原則があります。その原則とは神様は唯一でありながら人格が3つ(父なる神様・イエス・キリスト・聖霊なる神様)という原則です。この言葉は聖書には出てきませんが、聖書を読む時にハッキリと認められるものです。また創られたものの中には神様のこのご性質が示されています(ローマ1章20節)。例えば人間=霊+魂+体(Tテサロニケ5章23節)、世界=時間+空間+物質(創世記1章1節)というように、3つのものから一つが創られています。さらに私たちの真の救いにも、三位一体の原則がはたらかれます。(父なる神様のご計画により、また聖霊なる神様が聖書を通して心の泥を払ってくれることにより、イエス様の十字架と復活を信じるように導かれる(Tペテロ1章2節))。
このように、三位一体は神様に関する真理でありながら、私たちの福音に関しても重要なことなのです。そのことを覚えてまた救いに感謝です。

 

7月11日 「ペテロの手紙 第一 3:18より」

言葉の定義コンテストの入賞例
お金とは…天国以外のすべての所に連れて行き、幸せ以外のすべてのものを買うことができる手段
友とは…全世界があなたから離れたとき、一人駆け寄ってくれる人のこと
愛とは…あなたの存在を喜ぶこと、その人にとっての最善を追求する態度
上記の言葉をYahoo!検索で検索すると、「お金」:5億1450万件、「友」:8億6700万件、「愛」:22億5千万件ページ検索結果がヒットします。しかし、本当のそれらの意味を説明しているページはどれくらいあるのでしょうか?
全ての答えは一つの書物の中にすでに書き記されています。聖書です。
多くの人が福音を受け入れないわけ=福音があまりにもすばらしすぎるからではないでしょうか?イエス様の十字架上の苦しみ、そして復活をおぼえるだけで人は天国へ行けるのです。

 

7月4日 「御霊に従う者2」 ローマ人への手紙8章12〜18節

 私たちクリスチャンは、この世を歩むことは決して楽ではなく、苦しむことが多いです。人類の歴史を見ても、多くのクリスチャンが迫害を受けました。現代の日本でもイエス様を信じているために、周りの人たちとうまくいかないという人は多いです。でもこれは仕方ないことです。なぜならこの世は悪魔に支配されており、イエス様を排斥し、十字架につけました。そのイエス様を信じているクリスチャンを、この世は迫害して当たり前なのです。神様を愛するほど神様に従います。そして神様に従うほど、この世から受ける苦しみは大きくなります。でもその苦しみを乗り越えて余りある言葉があります。それは「キリストとの共同相続人」です。かつての私たちは罪の奴隷であり、死んだ後、永遠に地獄の中で苦しむべき者でした。そういう者が、今は神様の家族に加えられ、相続人として認められているのです。すばらしい神様の祝福です。そして私たちにこの祝福を与えるために、イエス様は十字架で苦しみ、いのちを捨ててくださいました。それを忘れてはいけません。

 


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6月27日 「神様の救い」 イザヤ書63章9節 

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた。
旧約聖書イザヤ書は、イエス様が来られる約700年前に記されました。そこには驚くべきことにイエス様に関する預言がたくさん記されています。イエス様は旧約聖書の預言の通り、この世に来られ、私たちを永遠の裁きから救うために、十字架上で想像を絶する苦しみを受けてくださいました。十字架上で苦しみ、死なれ、死後3日目によみがえられたイエス様をまことの神であり、救い主であると信じるなら、死後受けるはずの永遠の苦しみから救われ、もはや死も苦しみもない永遠の天国へ行く者とされるのです。イエス様による救いをあなたもぜひ信じ受け入れてくださいますように・・・。
神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。黙示録21章3.4節 

 

6月20日 「報 酬」  第一コリント9:24

 現在、南アフリカでワールドカップが催されており、寝不足の人も多いかと
思います。ところで、サッカー日本代表の報酬が幾らなのか御存知でしょうか?
実は1982年までサッカー日本代表選手の報酬はゼロでした。意外ですね。
その後、プロリーグは発足され少しずつ報酬が付くようになり、今大会ではプロ選手に相応しい金額の報酬が貰えるようになったそうです。
 何事にも働いた事象に合わせて「報酬」が付いてくるものです。それは労働などに対するモノばかりではなく、行った行動の対価として付いて来るものもあります。聖書は「罪からくる報酬は死です」と語っております。これは肉体的な死も意味しますが、本当の意味は「死=永遠の神との分離=地獄」を意味します。私たちは罪を犯したがゆえに地獄で罪を償わねばなりません。
 しかし先ほどの聖書の言葉のあとには「神から賜物はキリスト・イエスにある永遠の命」と書いてます。「賜物」とは「贈り物」です。これは私たちが何かの努力をしなくても与えられるものです。これはどんな状態にある人でも受けることのできる最高の贈り物です。この聖書の言葉から喜びと平安をもって生活することをお勧めします。

 

6月13日 「御霊に従う者」 ローマ人への手紙8章1〜11節

イエス様を救い主と信じている私たちクリスチャンは、地獄から救われているだけではありません。永遠のいのちを持ち、天の御国へいく者とされています。それだけではありません。私たちがイエス様を信じた時に、聖霊なる神様が、私たちの内に宿ってくださっているのです。そして聖霊は、私たちがひたすら神様のことを考える方向に、いつも導いておられるのです。
神様は私たちひとりひとりを通して、神様のご栄光(すばらしさ)を現されようとしています。だからこそ私たちは今、生かされているのです。神様のご栄光を現すことができるのは、クリスチャンに与えられた特権です。私たちが内に宿っている聖霊に導かれて、神様の喜ばれることを考えつつ、歩んでいくならば、私たちを通して、神様のご栄光が現されるのです。

 

6月6日 「聖書に見る古代文明のルーツ」 創世記11:2-9

×進化論の考え… 人間は猿から進化した=複雑な事を考えることばを持っていなかった
○創造論の考え…複雑な言葉を持っている=複雑な事を考える
<アダムは動物に名前をつけた=言葉を持っていた(神様とのコミュニケーションのため)>
全地は一つのことば、一つの話しことばであった。創世記11:1
当時の文明の特徴=巨大な建物(創造主への反逆のシンボル)
目的1… 頂が天に届く天文台を作る <視界が天に届く,宇宙の端を見る>そのためには知識・技術がいる(粘土版から見られた)
目的2… 名をあげよう(ニムロデの) <人間を神格化して拝む施設,巨大宗教施設としての建物>
散らされる=(言語が同じ物同士)共同体を作る
1: 肉体的特徴が似てる=
2: 古代文明のルーツ =エジプト文明/メソポタミヤ文明/インダス文明
○言葉がわからなくなるが、知識は残ったまま
○バベル以後突然起こる
○天文台を中心に据えている。
例)ピラミッド<バベルの塔建設で培われた知識や技術といえる>
聖書の記述は歴史的にも正しいと断定できる
つまり、過去のさかのぼるほど高度な技術・言葉を用いていたとするなら、進化論の考える過去にさかのぼるほど、かんたんな言語、技術という考えは明らかにおかしいことが分かる。

 

 


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5月30日 「将軍ナアマン」  第2列王記5章1節〜14節

 アラムの将軍ナアマンは、らい病にかかっていました。神様は預言者エリシャを通して、彼の病を癒すためにとても簡単な方法を用意されました。しかし彼はその方法を拒み、自分の国へ帰ろうとしました。その時彼の部下たちが言いました。「わが父よ。あの預言者がもしも難しいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ彼はあなたに『身を洗ってきよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。そこで彼は思いとどまり、彼らの言うことを聞きました。そしてナアマンは幼子の身体のように清くなったのです。
 神様が、私たちのために用意しておられる死後の永遠の裁きからの救いも、これと同じようにとても簡単です。まず自分が自分ではどうしようもない罪人であることを認めることです。そして神様が人となって来られたイエス様が、自分の罪の身代わりとなって十字架に架かって死なれ、三日目によみがえられたことを信じるだけでよいのです。実に簡単です。信じた私たちにとってはとても簡単な救いですが、未信者の方にとっては、自分の罪を認めることができない方が多く、信じることが難しいようです。私たちが信じて救われたことは、奇跡的なことであり、神様の恵みとしか言いようがありません。感謝しましょう。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。第1コリント1章18節

 

5月23日 「死は終わりではない」 創2:7 伝3:11 Tテサ5:23

 人のいのちは最後の呼吸、最後の鼓動で終わってしまうんでしょうか。
確かに死によって肉体の機能は停止します。しかし、肉体が死んでも、魂は永遠に生き続けます。(霊魂は不滅である。−ゲーテの言葉−)人が死ぬと今まで肉体に宿っていた魂は神の元に帰ります。すなわち魂は肉体の死によって人の支配から離れ、神の支配に委ねられるのです。そこでは、神様の裁きが待っています。
 神様はこの世の全てを支配しておられる方です。私たちがこの世の中でどのような歩みをしてきたのかその全てをご存知です。また神様は一点の罪もない方です。ですから人間の中にある一点の罪も見逃されることはありません。その方の前で私たちは自分の身の潔白を証明できるでしょうか。
 この世の中で自分の無罪を証明できる人は一人もいません。ただ神の御子イエスキリストの十字架による救いだけが私たちの罪を洗い流してくれるのです。イエス様を信じた者を神様はまったき聖い者として受け入れてくださいます。イエスキリストによる救いをぜひ信じてください。

 

5月16日 「福音の意味」 ヨハネ3:16

福音についてここでは4つのことについて見てみたいと思います。
@神の聖さ 神の聖さは完全であり人間はその神の前では汚れたものです。また人間は神の愛を受けるにはふさわしくなく、裁きだけが人間にはふさわしいのです。→(レビ11:44)
A罪 聖書は罪を犯す人がその罪のゆえに死を受けて当然であると教えます。この死とは神様との永遠の分離を表し、死後に地獄にいくことです。→(ローマ6:23、ヤコブ1:15)
Bイエス・キリストとは イエス様は神が人のかたちをとり地上に降りてこられた方であり、神であるがゆえに完全に聖く、罪がない方です。また死からよみがえり、罪に打ち勝った方です。さらに救いの道を罪人のために備えた方です。→(Tペテロ2:22、ローマ1:5)
C神が何を求めておられるか 救いをもたらす本物の信仰は罪からの「悔い改め」を含むものです。この「悔い改め」とは方向転換することであり、自分が今まで信じ、信頼してきたものすべてを捨て去り、イエス・キリストのみに信頼を置いて生きていこうとすることです。→(使徒17:30〜31)
 福音はしばしば単なる救いの計画と考えられがちですが、イエス・キリストに関する真理すべてをさすのが福音です。福音は「単に信じる決心をすること」ではなく、心も思いも意志も、すべてをイエス・キリストに明け渡すことであり、イエス・キリストとの個人的関係を持ち、主を通して神を知ることなのです。

 

5月9日 「誘惑に打ち勝つ」  マタイ4章1節〜

神は人を罪に誘惑は絶対にしません。
『だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。
神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません 』ヤコブの手紙1:13
イエス様は私たちと同じように試みにあわれました。それは、わたしたちと同じ経験を通して完全なる救い主となるためです。
悪魔の誘惑1:神の子なら石がパンになるように命じなさい。→イエス様の対応『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』 申命記8:3
【イエス様:神への信頼←→ 悪魔:自分の力】
悪魔の誘惑2:神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。→イエス様の対応『あなたの神である主を試みてはならない。』 申命記6:16
【イエス様:神の主権に委ねる←→ 悪魔:奇跡を要求し、神を試す】
悪魔の誘惑3:「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
→イエス様の対応『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』 申命記6:16
【イエス様:礼拝・奉仕は神のみにささげる ←→ 悪魔:悪魔に服する】
人類初の誘惑は...アダムとエバが受けた誘惑 創世記3:1〜
イエス様が誘惑を受けた状態:40日40夜断食した後アダムとエバが誘惑を受けた状態:満ちあふれた環境の中

 

5月2日 「律法に対して死んだ者3」 ローマ7章1〜6節

 律法は神様がイスラエル人に与えられたものです。律法を完全に守ることができるならば、神様から正しいと認められ、祝福されることが約束されたのです。しかしイスラエル人は、律法を守ることができませんでした。そのため神様からのろわれた存在になってしまいました。こののろいから自由になるためには、死ぬしかないのです。しかし神様は彼らの身代わりの犠牲を用意されました。それがイエス・キリストです。イエス様は十字架の上でのろわれた者になってくださり、命を捨ててくださったのです。そして「律法の時代」に終止符を打ってくださったのです。そして「恵みの時代」が始まりました。
 律法あるいは律法主義(人間の努力)によって、人間は神様から祝福を得ることは決してできません。しかし、イエス様による十字架の救いは、イエス様を信じるすべての人に与えられるのです。これほどの大きな恵みがどこにあるでしょうか。

 

 


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4月25日 「神の存在」  

神の目に見えない本性すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 ローマ1:20
 神は目には見えませんが、被造物によって神の存在を知ることができます。目に見えるものは有限でありやがて過ぎ去りますが、神は無限であり永遠から永遠まで存在される方です。
天を創造した方すなわち神、地を形造りこれを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず人の住み家にこれを形造られた方、まことにこの方がこう仰せられる。「私が主であるほかにはいない。」 イザヤ45:18
 神は私たちの人生の様々な場面に関与しておられます。中でも最大の関与は今から約2000年前の十字架の御業です。人生の勝利とは他人に勝つことではありません。そのようなことはちっぽけなことです。人生何が幸いするか誰にもわかりません。失敗から学ぶことが多いものです。しかし絶対に失敗してはならないことがあります。それは永遠の選択です。イエス様を救い主と信じ、永遠の天国へ入る道を選択してくださいますよう心からお勧

 

4月18日 「イザヤ 42章9節より」 

少し前にテレビで、SF作家の星新一さんについて特集してる番組を見ました。内容は「星新一さんが今から約40年前に書いたSF小説は今の社会の様子と見事に一致している」と絶賛していました。たしかに星新一さんの作品には、コンピューター社会・ネット社会・カード社会・オレオレ詐欺・臓器移殖など、40年前には想像も出来ない出来事を見事に予想してます。
しかし、よく考えてみますと 私たちが手にしている聖書は、今から約1900年前に現代にまつわる様々な預言を的中させてます。このように、人には到底不可能なことを実現させている聖書が、あなたを永遠の裁きから永遠の天国へ移す手段をも教えてくれます。このことを更に学んで、平安に満ちた人生を歩むことをお勧めします。

 

4月11日 「少年イエスキリスト」  ルカによる福音書2:52

 イエスの少年時代についての記述はこのルカの箇所だけです。イエスキリストは神でありながら人と全く同じ痛み、喜び、悲しみなどを経験されました。12歳のときエルサレム巡礼を終え、マリヤとヨセフとの帰路についてるはずのイエスキリストはひとりエルサレムに残り教師たちと対等にまたそれ以上に彼らと協議をしていました。母マリヤはイエスを見つけたときにこの光景に驚き、たしなめましたがイエスキリストは「自分の父の家にいる」という表現をしました。このことから自分は神の子であるということを示され、またナザレに帰って後、「両親に従順で、神と人とに愛された」という記事があります。
 このことから私たちクリスチャンもイエスキリストにならって神様に従うこと、そして自分の親に従うことの大事さを学ぶことができます。

 

4月4日 「律法に対して死んだ者2」 ローマ7:1〜6節

律法主義とは何でしょうか。人間が自分の力を信頼して正しいと思っていることをしようと努力することです。そして努力を神様に認めてもらいたいという気持ちです。このような気持ちは誰しも持っています。
 しかし神様との交わりや神様からの祝福に関しては、人間の努力は全く意味をなしません。すなわち律法主義では、神様から祝福を得ることはできないのです。
 神様が人間と交わるためには、神様が人間を祝福するためには、犠牲が必要です。それがイエス・キリストの十字架です。イエス様は十字架で肉を裂き、血を流されました。その時、人間が受けるべき罪の裁きを身代わりに受けてくださったのです。そのことを信じることよって人間は、自分の努力では決して得ることができない罪の赦しや永遠のいのちを得ることができるのです。これこそ神様からのすばらしい祝福です。

 

 


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3月28日 「ルカ15章8〜10節より」  

女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。
銀貨(お金)の特徴その1  銀貨の価値:作った人によって決まる。
<モノの価値:人間にとってどれだけ「役立つか」で決まる。>
銀貨(お金)の特徴その2  古くなっても価値が変わらない
<創造主である神様が価値を決めている(人を神のかたちに創造された 創世記1:26~27)>
この創世記の“かたち"=お金の肖像 に合致します。
イエス様はこの箇所で唯一人間を生命以外(銀貨)にたとえて表現しました。
どれだけぼろぼろになっても、破れていても、お金の価値が変わらないように、私たち人間もどれだけ汚れ、罪深くても神様に与えられた価値は変わることがありません。

 

 

3月21日 「信仰とは何か」 ルカ5:1〜11

当時漁は夜行うものでした。そしてプロの漁師であるシモンが夜通し漁をしても魚はとれませんでした。そのときにイエス様に言われた言葉に対してシモンが言ったのは「働きました」というものでした。これはイエス様の言葉を否定している人間的な想いです。しかし、後半部の「おことばどおりに」という部分から真に神様に信頼する姿勢、信仰とは何かを学ぶことができます。そしてシモンはイエス様の言葉に信頼していることがわかります。またすぐに行動しました。そして大漁という結果をえました。信仰とはシモンのようにこの世の常識に支配される、経験第一主義からでることです。世の中は神様がいない考え方で方向もない考え方です。私たちが真に信頼する言葉は神様の言葉であり、イエス様が私たちのために十字架にかかり死んでくださり、神様であることを示すために3日目の朝に復活してくださったことです。このことを今一度おぼえて、またシモンのようにイエス様に信頼して歩みたい。

 

3月14日 「空の空」  伝道者の書 12章13節

 「空の空。 伝道者は言う。 空の空。 すべては空。」
 
 この書を記したソロモン王は多くの財産を手にしました。しかし彼は空の空(ためいき)の連続と人生を表現しました。最後に彼が見つけた答えはこの聖句にあらわされています。
 「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである。」
 羊を導く羊飼いの使う突き棒や幕屋を風から守る釘のように聖書の言葉は日々なくてはならないものです。

 

3月7日 「律法に対して死んだ者」 ローマ7:1〜6

「律法」は神様が定めたもので、生活や社会おける戒めであり、
旧約聖書に記されています。そして律法を守れば神様から祝福されることが約束されていました。しかし、守らなければ呪いを受けます。そしてイエス様は、福音書の中で「誰一人として律法を完全に守ることはできない」ことを示唆しています。
 人間は神様の前では罪汚れた者であり、神様から呪われる存在です。そして神様の究極の呪いは地獄です。誰だって地獄へ行きたくありません。でも人間は律法を守ることができません。ですから自分の努力では、決して地獄へ行くことは避けられないのです。
 けれども、イエス様が人間の罪をすべて背負われ、身代わりに罪の刑罰を受けて死んでくださいました。そのことを信じたクリスチャンは、罪に対して死んだ者であり、律法に対しても死んだ者なのです。ですから律法を守ることができないからといって、神様から呪いを受けることは決してないのです。

 


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2月28日 「イエス様は希望・永遠の保障」

あなた方の敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。Tペテロ5:8.9
 今私たちが生きている世界は、死後の永遠を否定します。この世の常識にだまされてはいけません。常識=真理ではないからです。悪魔は人々の目を神様に向けさせないようにしています。この世の中で生活をしていると様々な苦難がありますが、イエス様は日々の生活の中で力強く生き抜く力を与えてくださいます。またどんなに苦難があろうとも、イエス様は希望であり、死後の永遠の保障なのです。
 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れたものには力を与え、勢力のない者には活気をつける。・・・主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。イザヤ40:28〜30

 

2月21日 「何故?」  ローマ1:19.20

 この箇所はイエス様が十字架に引き渡される直前の裁判のシーンです。ピラトはローマ帝国のカイザル王による権威により語り、一方イエス様は神の国の権威により話しました。ピラトの質問に対し、イエス様は的確な答えをし、ピラトは困惑します。自分の手に負えないとわかった彼は群衆(ユダヤ人/祭司/律法学者)にその判決をゆだねるかたちとなり、群衆は強盗のバラバを釈放して「イエスを十字架につけろ!」と何度も叫びました。ピラトはイエス様を捕らえて、むち打ち(背中が皮がはがれるほど)にし、いばらで冠(あざけりの象徴)を編み、紫色(尊い色→皮肉ってあざけり)の着物を着せ、兵士に平手で打たせました。それでも群衆は納得せず、ますます激しく叫んで「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫びました。ピラトは恐れすら感じ、自分の責任ではなく群衆にすべてをゆだねました。群衆は「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」と言い、王としてこの世に来られたイエス様を拒み、十字架に渡しました。私たちもその場にいたとしたら、どうするでしょうか?ユダヤ人と同じように律法学者の声に押され、雰囲気に飲み込まれるかもしれません。イエス様は全てを承知の上で、裁判にのぞみ十字架刑にむかわれました。そして私たちの罪のために死に渡され、3日後によみがえられました。

 

 

2月14日 「ローマ帝国 ピラト VS 神の国 イエス・キリスト」 ヨハネ18:33〜19:16

 私たちは生まれてから今まで、数多くの疑問を持ち、その答えを得ながら成長してきました。様々なことに興味を示したり悩んだりして答えを探すことは本当に大事なことだと思います。
 同じように、クリスチャンとして歩みの中にも様々な疑問があるものです。そんな疑問を持ったとき、私たちはどのようにしてその疑問を解いていけばいいのでしょうか?
 答えは全て聖書の中にあります。
 疑問を持ち迷ったとき、私たちはつい自分の経験や願望で答えを探そうとします。しかし、その前に聖書の中に答えを探しましょう。神様は常に私たちにとっての最善を用意してくださいます。ですから、与えられた答えを従順に受け入れて、平安に満ちた生活を歩むことをお勧めします。

 

2月7日 「罪に対して死んだ者2」 ローマ人への手紙6:1〜11

 イエス様を信じていない人間は、罪の奴隷です。しかしイエス様を信じた私たちは、イエス様とともに死んだ者であり、もはや罪の奴隷ではありません。そして、イエス様がよみがえったように、私たちも新しい人とされ、新しいいのちの中で歩んでいくものとされています。ただし、私たちも毎日罪を犯します。それは肉体を持っているからです。でもイエス様を信じたときに、新しい人になっており、罪には支配されていません。
 私たちが永遠の滅びから救われ、永遠のいのちを持っていることを、経験や感覚では捉えられません。同じように、罪の奴隷から解放され、新しいいのちの中で生きていることも、経験や感覚で捉えられません。しかし神様が聖書を通して語っているから、信じることができるのです。そしてイエス様が再臨される時に、私たちは完全に死なないからだになるのと同時に、完全に罪を持たないからだになるのです。

 

 


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1月31日 「神さまの御心と自分の思い」 創世記22章1〜18

 アブラハムの試練のお話から私達自身の歩みの中でいろいろと迷ったり悩んだりもあります。物事をどうするのが一番いいのかは分かりません。
 神さまは全てを知り全てを成す方です。与えてくださり取り上げても下さいます。自分の考えでなく御心を求め受け入れて歩めるならば幸いです。

 

1月24日 「ザアカイ」 ルカによる福音書 19:1〜10

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。当時の取税人は人々から嫌われていました。ユダヤ人なのにローマ帝国の手先として働き、人々から税金をだまし取っていたからです。ザアカイはとても金持ちでしたが、心の中はいつも不安でいっぱいでした。どんなにお金を貯えてもその不安は消えることはなく、幸せを得ることはできなかったのです。ところが、そんな彼がイエス様から声をかけられたとき、今までどうしても消えなかった心の不安が一瞬にして消えたのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。彼が救われた瞬間です。救いは一瞬にしてやってきます。イエス様を信じる者は誰でも救われるのです。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」
 イエス様による救いを信じ、受け入れることを心よりお勧めいたします。

 

 

1月17日 「進化論と創造論」 

進化論を唱える人があげる根拠の一つに痕跡器官と呼ばれるものがあります。痕跡器官の例には胸腺や虫垂(一般的には盲腸と呼ばれる)などがあります。これらの器官は昔は不要なものと考えられていましたが、今では免疫機能を守るためには必要な器官であることがわかってます。このように進化論者が唱えている話の根拠はことごとく否定されています。
 進化論の先には自己中心的な生き方があります。私達が犯す罪のベースにあるのは自己中心的なおもいであり、そこに絶対的な存在である神様は存在しないのです。聖書は私たち人間は創造主である真の神様によって創られ、神様にあって歩むという目的があると語っています。今一度真の神様の存在を認め、歩むことをおすすめします。

 

 

1月10日 「ふって湧いたか?誰かが造ったか?」【進化論 vs 創造論】 

1.邪魔者はいらないの論理
進化仮説によれば、動物は進化に伴って高等になり、不要な臓器は退化し、進化を示す「痕跡器官」として残っていると説明する。人類は理解できない臓器を進化の残りかす、進化の足跡を見せてくれる痕跡器官で、今は何の役にも立たない、無駄な物と決めつけ、一括して進化仮説に閉じこめてしまった。
2.痕跡器官とされた臓器の例
(1)扁桃(へんとう)(2)虫垂(ちゅうすい)(3)胸腺(きょうせん)
人類はその時代にもっている知識で理解できないものを“進化”(退化)というよく理解できない漠然とした論理を正しいと理解している。
進化論を深く教わった記憶はなくとも日々の教育や環境の中で、いのちが偶然に誕生したという進化仮説の土台に立った人生観ができあがっていたとするなら自分のいのちも、他の進化の過程にある生物同様、偶然に生まれ、そして進化の流れに沿って消えていくということになるだろう。計画も目的もなく、ただ偶然生まれたという生命観に立って自分の人生を見つめるなら、人はどう生きていけばいいのかわからなくなってしまう。人生の行く末が見えない生活は人々の心をすさませる。本当の答えは聖書の中にあります。

 

1月3日 「罪に対して死んだ者2」 ローマ 6:1〜11

 イエス様を信じていない人間は、罪の奴隷です。しかしイエス様を
信じた私たちは、イエス様とともに死んだ者であり、もはや罪の奴隷では
ありません。そして、イエス様がよみがえったように、私たちも新しい人とされ、新しいいのちの中で歩んでいくものとされています。ただし、私たちも毎日罪を犯します。それは肉体を持っているからです。でもイエス様を信じたときに、新しい人になっており、罪には支配されていません。
 私たちが永遠の滅びから救われ、永遠のいのちを持っていることを、経験や感覚では捉えられられません。同じように、罪の奴隷から解放され、新しいいのちの中で生きていることも、経験や感覚で捉えられません。しかし神様が聖書を通して語っているから、信じることができるのです。そしてイエス様が再臨される時に、私たちは完全に死なないからだになるのと同時に、完全に罪を持たないからだになるのです。

 

 

 

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