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12月31日
『宝と器について』 コリントU 4:7 |
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私たちにとって宝とはどういうものなのでしょうか。人、それぞれに貴重なもの、高価なもの、その価値観の差異によって大事に扱うものは違ってくるでしょう。すべての人間にとって最も大事な宝とは、神様から無償で頂ける永遠のいのちであり、神様の子どもという特権であり、神様の栄光をあらわす者として地上で歩むというすばらしい働きです。「いいえ、私はそんな高価なものを頂くようなたいそうな人間ではありません。」と思っていたとしても、あなたがあなたの価値を決めるのではなく、神様があなたの価値を決定するのです。聖書は、人間は「土の器」であるといっています。見てくれも悪く、もろく、確かにたいそうなものではありません。しかし、そこに価値を見いだし、永遠の宝を確かに神様は与えて下さったのです。私たちは、自身である土の器に目を向けるのではなく、そこにある宝に目を向け、感謝をもって歩んでいきましょう。 |
12月24日
「自分を変えたいあなたへ」 ルカの福音書 2章1節〜 |
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多くの人は自分を変えたいと思っています。そのために、環境を変えたり、仕事を変えたり、様々な努力をします。でも、どんなに努力をしても、人の本質は変わりません。なぜでしょうか、それは、すべての人が罪人だからです。
すべての人は死後神様の前に立ち、そこで審判があります。罪人には永遠の裁きが、罪のない者には永遠の天国が待っています。
この世に人が変われる方法はないのでしょうか。たった一つだけあります。それは自分の罪を罪と認め、イエス様による救いを信じることです。その時、人は本質から変えられます。そして永遠の裁きから永遠の天国へ入る者となります。人は自分の努力によって変わるのではなく、神様との出会いによって変えられるのです。 |
12月17日
イザヤ書 1章18節より |
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あなたがたの罪の汚れがどれほどひどくても、わたしはそれを洗い清め、降ったばかりの雪のように白くしよう。
旧約聖書イザヤ1:18
後悔していることはありませんか?【罪責感】・だれかに知られたら・みんなに嫌われたら・自分の評判が落ちる等と考えること。私たちは、この【罪責感】をどう解決するか?【ただ信じる】=神様は赦してくださると信じる、これのみです。
私たちのよりどころ<あなたの人生はどちらですか?>
「計器飛行」離陸時に管制塔と交信しながら運転する(人生を神様と相談しながら決める)
「有視界飛行」操縦席から前方を見渡して自分で安全を常に確保する(自分の判断で人生を決める) |
12月10日
「ゆだねる」 ピリピ人への手紙 1章29節〜 |
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あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
私たちは日々たくさんの物に囲まれ、それぞれに疑いもなく信頼をおいて暮らしています。しかし、本当に全てをゆだねることのできるのは神様に対してのみです。あなたは、自分の重荷を道ばたに投げ捨てて少しでも軽くなろうとしていませんか?神様は私の所に来て荷物をおろし、あなたをやすませてあげると聖書で約束してくれています。 |
12月3日
「塩と光」 マタイの福音書5章13〜16節 |
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イエス様がこの話をされた場所はイスラエルです。ここは岩塩が多く植物が育ちにくい土地でした。またたいへん暑く、人々は昼の光を避けて生活していました。塩や光は嫌われる存在でした。ですからイエス様は「塩のように役立つ人になれ。光のように世を照らす人になれ。」ということではなく、「私(イエス様)に従っていくならば、あなたがた世の人から嫌われます。」ということを言われたのです。
悪魔に支配されたこの世はイエス様を排斥しました。その世において私たちクリスチャンは嫌われて当然です。ですから私たちは世の中で役立とうと努力する必要はないのです。私たちは世の基準にとらわれない自由な生き方ができるのです。そして私たちは神様に受け入れられ、愛されています。どうか神様を信じ、本当の意味で「地の塩、世の光」として歩んでくださいますように。 |
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11月26日
『イエス様の変貌』 マタイ 17:1〜
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イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。・・・
神様は被造物(自然界)を通して、人間の良心を通して、ユダヤ人の歴史を通して、イエス様を通して、ご自身の栄光を表しておられます。
イエス様は永遠から永遠まで存在しておられる真の神であり、救い主です。イエス様は十字架に架けられ死なれる前に弟子たちに栄光に輝く本当の姿を示され、真の神であることを表されたのです。 |
11月19日
『神様は報いてくださる方』 イザヤ書 43章より |
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私たちが生きている今の世の中では、悪いことをしていても、見つからなければ、つかまらなければ、罪には定められません。
一方、神様は、私たちが生まれてから死ぬまで、良い面も悪い面もすべてを知っておられ、それに基づいて、一人一人にそれぞれ報いを与えられます。
また、神様は私たちのことを決して悪いようにはされません。私たちが最も良くなるように、いつも見守り、導き、報いてくださる方です。
「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」 イザヤ43:1 |
11月12日
『ヘルモン山での出来事』 マタイ 17章1〜13節 |
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イエス様がモーセとエリヤの前で本来の御姿をあわらされる場面。書物を残した預言者モーセと語る事で神様を伝えたエリヤに対して本来の御姿を現し、彼らに語ることにより、イエス様自身が最期(十字架のあがない)を迎えることを示されました。私たち信じたクリスチャンも神様の前で神様と語る事ができるようになったことを現しています。
『ペテロの誤解』
この場面で、ペテロは2つの誤解をしました。一つは、イエス様とモーセとエリヤが同等の位であること、もう一つは千年王国が来た。ということです。 |
11月5日
「7年間の豊作と飢饉」 創世記41章
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皆さんは自分の将来についてどれくらい考えておられますか。これから5年先10年先のことを意識して今を生きておられるでしょうか。
エジプトのパロは、ヨセフによる夢の解き明かしという情報を与えられたとき、そのことを正しい情報と信じ、自分と自分の国民を守るために、すぐ行動を起こしました。その結果、やがて来た大飢饉から、自分の国だけではなく、外国からやってきた人たちの命まで救うことができました。
情報は与えられています。あとは、自分がその情報をどう捉えるか。(@自分事と捉え行動するかA他人事と捉えすぐ忘れるか)また、どのように行動するかによって結果は変わってきます。 |
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10月29日
エペソ人への手紙5章20節より |
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いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
5章22節から、「従う」ことについて3種類の人間関係をとらえて記述されています。夫婦関係、親子関係、雇用者と労働者との関係です。現代社会において、これらの人間関係のひずみによってどれほどの問題が生じていることでしょう。それは、人それぞれが、自分自身の人生の目的を理解していないからです。神様のよって創造され、生かされている私たちは、神様に目を向けて生きなければ真の人生は獲得できません。また、神様に支配され、導かれていると知るからこそ、すべてのことに感謝を抱けるのです。人間社会ですから摩擦や問題は当然生じることでしょう。「従う」とは、「わが身を従わせる」ということです。すべてが神様に導かれているのですから、神様に信頼を置き、この世の人間関係に悩まされることなく、まず「わが身を従わせ」そしてさらに神様に感謝をもってますます信頼し、従順に生きていこうではありませんか。 |
10月22日
「毒麦の例え」 マタイの福音書 13章24〜30節 |
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この例えに出てくる良い種とはクリスチャンのこと、悪い種とは異端のことを表しています。今の世の中はクリスチャンと異端が入り混じった状態であると言っているのです。でもこのような状態がいつまでも続くわけではありません。やがて収穫の時期がやってきます。
収穫の時期とは、神様の裁きを表しています。すなわち、この世の終わりの時期になると、良い者と悪い者とをきちんと見極められる神様の誰にも逃れることのできない裁きがあるということを、イエス様は例えを通して語られたのです。今の世界は決して永遠には続きません。終末の時は、刻一刻と近づいているのです。 |
10月15日
「医者が必要な者」 ルカの福音書 5章27〜32節 |
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イエス様のおられた当時、律法を守ることに情熱を燃やしていたのが、パリサイ人や律法学者たちでした。そして律法を守ることができない人を「罪人」といって軽蔑しました。でも律法を完璧に守ることができる人はいません。ですからパリサイ人や律法学者も罪人であるはずです。イエス様は、その彼らに「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と言われました。これは罪人を病人に例えて、「あなたがたは自分が病人であることが分かっていません。そんな者には医者は必要ないですね。」と言われているのです。聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあります。すべての人間は罪人です。どうか自分が罪人であることを認め、医者すなわち救い主であるイエス様を受け入れてくださいますように。 |
10月8日
ザアカイ ルカの福音書 19章1〜10節 |
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私たちの一生は、死後の永遠に比べると、一瞬にして過ぎ去ります。
神様を認めない生活をしている人は、死後、永遠の刑罰を受けなければなりません。この世でどんなに成功しても、死後を永遠の刑罰の中で過ごすなら、この世の人生は何の価値もありません。イエス様は、私たちを永遠の刑罰から救うためにこの世に来られました。イエス様はご自身の命をささげることにより、私たちに対する本当の愛を示してくださいました。
イエスは彼に言われた。
「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 ルカ19:10 |
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9月24日
四つの種 |
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種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出した。しかし日が上ると焼けて根がないために枯れてしまった。また別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びてふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 マタイ13:3〜8
このたとえをとおして次の事を学べます。道端に落ちた種も、薄い岩地に落ちた種も、いばらの中に落ちた種もいずれも神様を信じていない人を指します。教会から離れている人はこのような人達であり彼らに対して私たちは救いに導く時と同じように教会に招きます。良い地に落ちた種のように多くの実を神様に祈りつつ結びましょう。 |
9月17日
神様のもの |
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『カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい』(マルコ12:13〜17)
ローマに支配されていた当時のユダヤ人はカエサルに対して人頭税を支払う義務がありました。その時デナリ硬貨にはカエサルの顔が掘られており、イエス様はまさにその持ち主に返すべきだといいました。そして神に似せられて作られた私たち一人一人は神様のものであり、神様に私たちの全てをゆだねるという意味で言われました。イエス様の返答を通して私たちは神様の愛をより理解できることは感謝です。 |
9月10日
「人生の勝利者」マタイの福音書10章28節 |
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からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにでゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
私たちの生涯は神様の前に明らかにされています。すべての人間はこの世の生涯に基づいて、死後、神様の裁きを受けます。人生の勝利者とは、この世の生涯で成功したかどうかでは決まりません。
死後、天国へ行ける人だけが、真の人生の勝利者となるのです。 |
9月3日
「狭い門から2」マタイの福音書7章13〜14節 |
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ノアは神様から箱舟をつくるように命じられました。人々はノアをばかにし、差別しました。でも彼はそのことに屈せず、箱舟をつくり上げました。ノアは「神様は必ず大洪水を起こさせる。しかし箱舟に乗った者を救ってくださる。」ということを信じたからこそ、実行できたのです。同じように私たちも、イエス・キリストを信じることによって、人々からばかにされ、差別されます。それは孤独で悲しく、また苦労に満ちた歩みかもしれません。まさに「狭い門から入る」と言えます。でもその門は「永遠のいのちに至る門」でもあるのです。ぜひ、神様そしてイエス様を信じて、永遠の救いといのちを得てください
ますように。 |
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8月27日
平安(本当の安心) 詩篇91編より |
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主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
私たちはこの世の生涯を歩むとき、様々な障害に出くわします。
しかし、どのような障害の中にあっても、神様が共にいて、羽を広げて雛鳥を守る親鳥のように、私たちのことを守ってくださいます。
神様のみことばを明確に理解し、神様が私たちのために与えてくださった永遠の救いに、心から感謝して人生を歩みましょう。 |
8月20日
「狭い門から」 マタイの福音書7章13〜14節 |
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「狭い門」というのは、一般に多くの人たちが殺到するために、通過するのが難しい門という意味で使われます。でもこの「狭い門」は、その逆の意味です。イエス様がおられた当時、ユダヤは外からの敵の侵入を防ぐために、大きな町は城壁で囲まれていました。そして城壁から中に入るために、いくつか門が設けられていました。多くの人は大きな門を通って、町に入るのですが、体の不自由な人たち、病気の人たち、いわば社会から差別され、見捨てられている人たちは脇の目立たない狭い門を通っていたのです。従ってその門から入るためには、自分のプライドを捨てる覚悟が必要でした。プライドがイエス様を受け入れる妨げになることがあります。どうかプライドを捨て、自分が罪ある人間、弱い人間であることを認めて、イエス様を信じ、永遠の救いといのちを受け取ってください。 |
8月13日
金持ちとラザロ ルカ16:19〜 |
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ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さてこの貧乏人は死んで御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
新約聖書には、「実名が出ているときは例え話ではなく実話である。」という理解の原則があります。ですからこの記事は実話です。金持ちも貧乏人も死に関しては平等です。すべての人は必ず死にます。重要なのは、自分が死後、天国と地獄どっちへ行くかということです。あなたは自分がどっちへ行くか知っていますか。 |
8月6日
「空の空」 伝道者の書より |
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エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
伝道者とは、ソロモン王のことです。
ソロモン王は、神様によって、絶大な権力と財産と知恵を得ました。彼はそれらを使い、この世のあらゆる快楽を行いました。その結果、彼から出たことばが「空の空・・・。」だったのです。私は心の心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」これもまた、なんと空しいことか。
たとえ人がうらやむような人生を歩んいても、それが神様なしの人生だったら、それは空しいだけで終わってしまいます。神様と共に歩む人生だけが、空しさのない真に価値ある人生を与えてくれます。 |
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7月30日
第1コリント15章1節〜10節 |
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「摂理」と呼ばれるカルト集団による事件が社会の耳目を震撼させています。彼らは聖書の言葉を曲解し、自分たちの都合のよいような教理を作ったのです。こういった事件が報道されると、私たちの伝道の妨げになるように思いますし、また自分たちの信じている福音の真実性に不安を抱いてしまう方もおられるかもしれません。聖書が宣言している真実なる福音には4つの重要なポイントがあります。1つはイエスキリストが聖書の預言とおりに死なれたこと。2つめはこの死の原因は人間の罪の清算であったこと、3つめは確かに絶命されて葬られたこと、4つめは3日目によみがえられたことです。聖書自身が、「これらが福音」と宣言しているのです。異端の共通点はイエスキリストの神性を否定することです。これらの流れに乗じて私たちに対する困難が降り注いでくるかもしれませんが、そんなときにも私たちは、真実を知り信じた者として、堂々と弁明し、キリストの希望を述べつたえたいものだ。 |
7月23日
「主の日」 |
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世の中の出来事で聖書が言っている以外の事で、絶対正しいということは一切ありません。今栄えていることがこれからもずっと続くという保障もありません。今はやっていることに心を奪われていてはいけません。私たちは、自分の将来をしっかり見据え、そこに目を向けなければいけません。
聖書とは何でしょうか。宗教と同じように理解していてはいけません。ものが違います。中身が違います。根本的に違うのです。習慣や文化は決して真理ではありません。聖書の中には真理が存在します。
クリスチャンは聖書の真理に従って、自分の人生の方向性を決めることができます。クリスチャンは唯一の真の神様に頼ることができます。そこにはこの世の成功では得られない本当の幸せがあります。 |
7月16日
「潜在意識の法則」 |
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人生で起こるどんな問題も、何か大切なことを気づかせてくれるために起こります。つまり偶然起こるのではなくて、起こるべくして必然的に起こるんです。ということは、自分に解決できない問題は決して起こらないのです。
起きる問題は、すべて自分で解決できるから起きるのであり、前向きで愛のある取り組みさえすれば、後で必ず「あの問題が起きてよかった。そのおかげで・・・」と言えるような恩恵をもたらすのです。
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」
コリント人への手紙第1 10章13節
この法則と聖書の御言葉 何だか似てると思いませんか |
7月9日
「ダニエルが見た幻」 ダニエル書7章1節〜 |
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ダニエルは夢の中で4頭の獣の幻を見ました。それぞれの獣には意味があり、現在(当時)から未来に起こる世界を支配する国を表していました。
1.ライオンとワシ→第2バビロン帝国
2.クマ→メディアペルシャ
3.ヒョウ →ギリシャ
4.10本の角を持つ獣→ ローマ帝国
4つの世界帝国はいずれも滅びました。このように人の作った制度は、いつか崩壊してしまいます。しかし聖書が語る制度(神様の制度)は決して崩壊することはなく、永遠に続きます。 |
7月2日
「最後の人にも2」 マタイの福音書20章1〜16節 |
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最後に雇われた者たちは、1時間しか働くことができなかったけれども、ぶどう園の主人は彼らにも1デナリを与えました。これは主人からの一方的な恵みです。私たちも神様のために、何か役立つことをしたから、神様は福音を与えてくださったのではありません。福音は神様からの一方的な恵みです。また主人は、朝から働いた者にも、最後に雇われた者にも同じ1デナリを与えました。同様に神様が与えてくださる福音はひとつしかありません。罪のゆるしや永遠のいのちに種類や階級はないのです。神様はどんな人間にも、イエス様を信じるならば、その時点で完全な罪のゆるし、完全な永遠のいのちをお与えになります。ぜひこの神様からの福音を受け取ってください。 |
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6月25日
進化論と創造論 創世記1:20 |
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一般的に正しいと思われているもののなかで、よく考察してみると実は全く真実ではないことがあります。
例えば進化論もそのひとつで、かつてのナチスドイツ(ヒトラー)は進化論をもとにした政策をおしすすめていました。ダーウィンの思想にもとづき障害者やユダヤ人を進化しそこなったものとして排除すべくあの大虐殺がおこりました。誰が見てもこの思想・歴史は間違ったものだと分かります。
対照的に当時のある病院の看護婦たちは創造論にもとづき人間は貴い存在であることにもとづき迫害されている人たちを守りました。
私達は真実に目を向けて歩んで行くべきです。 |
6月18日
「最後の人にも」 マタイの福音書20章1〜16節 |
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このぶどう園の話に登場する主人の賃金の支払い方に対して、朝から働いていた労働者たちは、この主人に文句を言いました。この労働者たちの言い分の方が正しく、ぶどう園の主人の方がおかしな人間と考えてしまいます。しかし5時から雇われた労働者は、それまで仕事をするチャンスがなかったのです。けれども、この主人は彼らを雇い、朝から働いていた人と同じ賃金である1デナリを与えました。おそらく5時から雇われた者たちは喜び、主人に感謝したことでしょう。私たちも最後に雇われた労働者のような者です。神様が私たちに目を留められ、語りかけてくださいました。イエス・キリストが私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったという信仰、そして地獄からの救いと永遠のいのちを与えてくださいました。その神様の恵みを、ぜひ覚えて感謝してくださいますように。 |
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5月28日
「サウロの改心」 使徒の働き 9章1節〜 |
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人は何で自分だけ孤独なの?とか、何で自分だけこんな目に会うの?とか考えますが、これは世界共通の考え方のようです。
また、人の価値は学歴では決まりません。例えば東京大学は日本ではトップですが世界ランクは60位です。上には上があるのです。
人の価値は人からいかに受け入れられるかではなく、神様に受け入れられているかどうかで決まります。私たちには神様は見えませんが、神様には私たちのことがよく見えており、いつも愛と恵みを持って見守って下さっています。
神様によって選ばれた人(クリスチャン)は最高の人生を生きているのです。
主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人・王たち・イスラエルの子孫に運ぶ、わたしの選びの器です・・・。」
使徒 9:15 |
5月21日
「知る→展望→確信→技術→徳性」 |
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まず福音を知り、それを調べ、心から信じ、聞くだけではなくみことばを実践し、キリストに近づくという目標設定をします。
時にしてこの世の情報は一見・一聞しただけでは真実がわからないものがたくさんあります。また、あえてわかりにくくしているものが多く存在します。
そのようなものに惑わされずクリスチャンはみことばに基づいた歩みができるように、常に神様に祈り歩んでいければ幸いです。
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5月14日
「非常識な行い」 ルカの福音書 5章1〜39節 |
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イエス様を信じること、信じて歩むこととはどういうことでしょうか。それは、この世の常識や人の経験に基づいて歩むこととは違います。この世の常識や人の経験を否定することもしばしばあります。この世の一般的な常識に支配されて生きていてはいけません。何が真理なのかを自分でしっかりと見極めることが必要です。この世の教えは、この世の中でいかに生きるかを教えてくれますが、絶対的真理ではありません。また、この世は永遠には続きません。
皆さんは、人生のどこに価値を置いていますか。クリスチャンはこの世ではなく永遠に、目に見えるものではなく、見えないものに価値を置いています。見えるものは一時的であるが、見えないものは永遠に続くからです。 |
5月7日
「招きにこたえる2」 ルカの福音書14章15〜24節 |
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主人が催した宴会に招待された人々は、次々に断ってしまいます。この招待を断った3人の何が問題だったのでしょうか。
第一に各自の心が、自分を招いてくれた主人やその宴会のことよりも、自分のことだけに心が向いてしまっていたということです。そして第二に自分の目の前にあることだけに、心を奪われていたことです。
人間は自分のことだけに心を向けていると、自分の罪が気になったり、劣等感をいだいたりして、自分を嘆くことに明け暮れてしまいます。そのとき私たちは心を自分から神様の方へ向ける必要があります。神様に心を向けることで、心の病から、自分自身のしがらみから解放されます。その神様はひとり子を世に遣わし、十字架で犠牲にされました。神様は私たちをどこまでも愛されており、神様はやがて私たちを天国に招いてくださっています。クリスチャンは永遠の幸せを保障されています。
今、目の前にあることだけに心を奪われるのではなく、永遠のいのち、永遠の天国にも心を向けてください。 |
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4月30日
「未来の備え」について ルカ16章1〜9節 |
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「不正の富によって友をつくりなさい」というのは、直接的には患難時代に生きるユダヤ人に対するメッセージで、患難時代に迫害されている信者を護衛した未信者は千年王国に入れるということである。今の時代に生きる私たちへの適応は、当時の文化背景から判断すると、「不正の富」は会堂で使えない一般流通貨幣のことをいい、こういったことについては「小さいことに忠実であれ」と述べられるように、世のことだからといっていい加減にしてはいけない、という神様からの教えであると理解できる。もちろん、世は神様に反逆するものなので、仕える対象ではないが、真に大きなこと「永遠のいのち」「主イエスキリスト」に忠実であるのならば、その他のことを決していい加減にしてはならない。むしろ、この地上に生きる者として「管理」し、今生かされている立場と状態にあわせ、すべての点で忠実にありたいと願うものである。
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4月23日
「つぶやくことは不信仰の表れ」 |
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パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、収税人や罪人たちと一緒に飲み食いするのですか。」 ルカ5:30
つぶやくとは、ブツブツと文句を言うことを表しています。人は自分の思い通りにならないときにブツブツと文句を言います。文句を言っている人の心の中には、神様の存在や尊厳は存在しません。あるのは自己中心的な考えです。ですから、不信仰な人ほどつぶやくのです。また、この行為は他の人にも影響を与え、伝染するので注意が必要です。
他人のことをつぶやかず、神様を第一とし、信仰を持って歩みましょう。 |
4月16日
「神様の前において義と認められる」 |
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私たちの救いは、キリスト・イエスを信じる信仰によります。イエス・キリストの十字架と復活と自分自身の罪を認め、「信じる」 この事によって私たちは罪を持ったままではありますが、神様から義と認められます。
人が神様からの恵みによって救われ、永遠の命を与えられるのは、その人が立派で正しいからでもなく、何かすばらしい者であるからでもありません。「信仰」を持ったからです。ですから本当に誰でも救われるのです。自分を見た時、ふさわしくないように見えるかもしれません。しかし、人を見るのではなく、神様を見、イエス様を見てください。
あなたがたは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たのではなく神からの賜物です。 エペソ2:8 |
4月2日
「招きにこたえる」 ルカの福音書14章15〜24節 |
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この宴会を催した主人は、招待した人たちが来ないことが分かると、貧しい人や体の不自由な人たちを招きます。また、しもべに街道や垣根のところまで行って人々を連れてくるように命じます。そこまでしてでも、この主人は人々を宴会に招くことに真剣で、熱心であることが分かります。
この宴会を催した主人は神様を、そして宴会は神の国を示しています。
神様は、罪で汚れきった汚く恐ろしいこの人間の世界に、ご自身の愛するひとり子を送ってくださいました。そして私たち人間の罪をゆるすために、ひとり子を人間の身代わりに、十字架で罰したのです。
そのようなことまでして私たち人間を、真剣にかつ熱心に神の国に招いてくださっています。どうかこの神様の招きにこたえてくださいますように。 |
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3月26日
取税人レビを召す ルカ5章27節〜32節 |
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取税人は、ローマ帝国の税金徴収者であるが、当時の取税人の多くは、搾取を常習としており、一般の人々からは侮辱され、罪人と呼ばれていました。
その後、イエス様に従った取税人レビは、マタイ(神様の贈り物)と名づけられました。また、12弟子のうちの1人となり、聖書記者にもなったのです。
イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく病人です。わたしは正しい者を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 ルカ 5:31.32 |
3月19日
「忠実なしもべ2」 マタイの福音書25章14〜30節 |
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1タラント預かったしもべは、主人からの信頼を理解することができず、主人からまかされた莫大な財産を用いようとしませんでした。このしもべは、他のしもべに与えられた金額と自分の金額を比較し、謙遜な謙遜な気持ちを持つことができなかったようです。
神様から与えられたすばらしい賜物を見出し、生かすために、私たちは謙遜になるべきです。謙遜になるということは、「神様が一番すばらしい」と認めることです。
神様は私たちに罪のゆるし、救い、永遠のいのちを与えてくださいました。
そのためにひとり子イエスキリストを犠牲にされたのです。「すばらしい」と何度言っても言い切れないほど、神様はすばらしいです。そのことを認識し、神様の前に謙遜になりましょう。 |
3月12日
いやしのきせき ルカの福音書5章12節〜26節 |
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ここには、二人の人の癒しの記事が記されていますが、共通していることがあります。それは非常識な行動です。
当時、らい病人が人前に出ることは、赦されない行為でした。しかし、あえてその行為を行った彼は癒されました。
また、中風の人を癒すために、知人たちは人の家の屋根に勝手に上り、屋根を破壊して、イエス様の元へ連れて来るという非常識な行為をしました。結果、中風の人は癒されました。この時、彼らが自分の経験やこの世の常識にとらわれて、非常識な行動をしなかったら、この奇跡はなかったでしょう。
イエス様は、証拠としての奇跡を行うことによって「あなたの罪は赦された。」ということが事実であることを示してくださいました。 |
3月5日
コリント人への手紙第一 12章4節〜24節 |
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クリスチャンのスポーツ選手や音楽家などが公の場で堂々と神様を証しし、主の栄光を表しているのを見るときに、私たちは畏敬の念を抱いたり羨望の眼差しを送ることがあります。
しかし、聖書を紐解いてみると主にある働きには優劣は無い、と教えてくれます。器官の喩えにあるように、人目に付く見栄えのよい働きだけではキリストの体である教会を構成していく事はできません。大きな働きも人目に付きにくい小さな働きも全てが教会にとって必要なものです。さらに聖書には「弱い器官をことさらに尊びます」とあるように小さな弱い働きこそ必要だと教えてくれます。
私たちは、私たちの教会を福音伝道に更に進めていくために、自分が神様のために出来ることを感謝しつつ精一杯していくことが大事なのだと再確認し、神様から与えられたこの人生を歩んでいかれることをお勧めします。 |
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2月19日
「忠実なしもべ」 マタイの福音書25章14〜30節 |
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5タラント預かったしもべと2タラント預かったしもべは、主人から「忠実」であったことをほめられました。この二人のしもべは、主人から信頼されていることをよく理解していたのです。
しかし1タラント預かったしもべは、主人からの信頼を理解することができず、主人から与えらえた莫大な財産を用いようとしませんでした。
私たちも最後のしもべのように、他の人と比較して悩み悲しみ、何もできないことが多いのではないでしょうか。
しかし、私たちひとりひとりに異なったタレント(賜物)が、神様から与えられています。そのことを確信して歩みましょう。 |
2月12日
物事の判断の基準 ルカ5:1〜11 |
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私たちは物事を判断する時、この世の常識、自分自身の知識や経験によって判断します。でも、もう一つ判断の基準があります。それは信仰です。この時ペテロはイエス様のことばを信じ、その信仰に基づいて湖に網をおろしました。そして、大漁という結果を得ました。
神様のことばに従うことは、この世の常識に反することかもしれません。しかし、その先には素晴らしい未来が約束されているのです。
「先生 私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。 |
2月5日
罪とは何なのでしょうか?
− ローマ人への手紙 5章12節〜21節より− |
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ギリシャ語で罪をあらわす言葉のひとつに“ハマルテヤ”という言葉があります。これは“的外れ”という意味です。矢を的に向かって射った時に的から外れるという意味です。
私たちの生活は、自分勝手な生活をしており、その生き方は自分でつくった的にはぴったりとあっているかもしれませんが、神様の的からは外れているのです。すなわち神様によって造られた人間として、本来あるべき姿では生きていないのです。罪とは、本来の目的からはずれているということなのです。 |
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1月29日
第2列王記2:23〜25 |
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エリシャは神様の預言者であり、奇蹟等を行うことにより、その立場を人々に明らかにしていた。神様に畏敬の念を抱く人々はそのことを理解していた。ところが、ここで「小さな子どもたち」が、彼をからかっているような表記がある。エリシャの容姿を幼い子どもたちがイタズラでからかったところ、エリシャが腹を立てて逆襲しているようなイメージを思い描くが、「小さな子ども」とは原語を見ると「30代前後の若者」であり、「上って来い」というのは、「生きたまま天国へ上ってみろ(エリヤのように)」ということである。神様の預言者であることを中傷し、侮辱しており、明らかに神様に対する積極的な反逆であり、神様に対する罪だと理解できる。だから神様は裁きを与えられた。
これは私たち現代に生きる人間にも適応できる。罪と死と裁きは私たちの定めである。だが、24節で「かき裂いた」とあるように実はまだ命までとってはおられない。神様はいずれも悔い改める機会を与えてくださる。「今が恵みのとき」とあるよう、神様の深い恵みを理解し、恵みの御手に自身をゆだねよう。 |
1月22日
聖書は真実の書 |
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わたしは、彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行いとわざに応じて彼らをさばいた。 エゼキエル書
36章19節
AD70年 エルサレムはローマ帝国のテトウス将軍によって滅ぼされ、ユダヤ人は自分の国を失い、世界中に散らされました。冒頭のみことばのように聖書は何百年も前からこのことを預言していました。歴史を見ると聖書の預言が真実である事がわかります。世の中には様々な情報が存在しますが、私たちには何が真実なのかわからないことがよくあります。聖書は何千年も前から私たちに真実を告げています。世の中の様々な情報に惑わされることなく、聖書を通して真の情報を得ている私たちは、真の幸せ者ということができます。 |
1月15日
伝道者の書 12:8節から |
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書物のあとがきにはポイントがあるものです。
伝道者の書の12章の最後にはソロモンが伝えたい言葉が要約されています。それは、突き棒(羊飼いが羊を導く棒)や打ち付けられた釘(天幕を地上に固定する釘)のように、日常的に必要なもののように聖書の言葉も日々私は必要とします。多くの人生の目的を記した書物がありますが、それらに惑わされることのないようにともソロモンは忠告しています。(12節)
空の空と言ったソロモンは、そのむなしさも悲観することなく、神様の御手による労苦をも喜ぶものとして、受け入れるようにと語っています。私たちの生活は常に神様によって導かれています。
『神のなさることは時にかなって美しい』(3章11節) |
1月8日 イエス様が馬小屋で産まれた理由 ルカ2:1〜20 |
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イエス様は産まれる前から、この世から拒絶されていました。人間の世界は救い主の産まれる場所さえ提供しなかったのです。その結果、イエス様は馬小屋で産まれることになりました。このことは、救い主を決して受け入れようとしないこの世の性質を表しています。
それでも、イエス様はこの世に来られました。そして、自分に敵対するこの世の人々の為に、ご自身のいのちを捧げてくださったのです。 |
1月1日 ある金持ちの例え ルカ12:15〜21 |
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「いくら豊かな人でもその人のいのちは財産にあるのではないからです。」 この金持ちは、収穫した作物はすべて自分のものであり、独り占めにしようと考えていました。他人に分け与えることなどまったく考えていませんでした。 そんな彼に神様は「愚か者 おまえの魂は今夜おまえから取り去られる。」と言われました。彼が自分のために蓄えた財産は一瞬にして消えることになったのです。
神様は、神様の恵みを独り占めにするのではなく、一人でも多くの人に分け与えることを望んでおられます。
イエス様は自分のいのちと引き替えに、私たちに永遠の命を与えてくださったのですから・・・。 |